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人間は真に新しいものを創造する能力を持たない。想像力の神秘性と純粋同一性

創造、生産とは、当の生産されたものの特異性が、その創造・生産行為から直接導けないが故に神秘的であり、それが無からの生産でなく主体の能力としたところで、神秘性を隠蔽しただけです。つまりそれは、生産の神秘性を想像力に包み隠したが、その想像力とは、まさに無から生産するのであり、生産の根拠の実体化でしかない。

神であれ、その存在の神秘性と、その力能としての創造の神秘とは別です。神の存在に関する神秘性の除去と、神の力能とされる無からの創造の能力の神秘性の除去とは、さしあたり別々に行われねばならないでしょう。

だから、創造とは、ここ(経験世界)にないが外部には既に在るものを、ここ(経験世界)にもたらすこと、です。
つまり外部へのアクセスーそれも未知の領域にて、己にとってのその未規定性に対し自性を保ち、堪え忍びながら持続することーにおいて、単なる永遠生成の閉域における未規定性でなく、既にこのもの性をもっているもの、つまり純粋同一性を掴み持ち帰らねばならないのです。

純粋同一性などない、永遠生成とは予めの同一性なき差異の反復だ、という主張があるとします。
その場合もし純粋生成の閉域にアクセスするだけだったら、それは、材料たる質料、未規定性を経験世界に持ち込んで、それを素に組み立てる、形にする、ということに、想像力は還元されるでしょう。しかしこの予めの青写真なき組み立て作業は、たまたま新しい形を取りうるが、まさにその形である必然性がないため、問題的な対象にはならないのです。つまりそれは新しい芸術作品のようなものでしかなく、新しい概念や思考の枠組みを得るのではない。根本的に思考の様式を揺さぶり、その刷新を迫るような、問題的な対象は、したがって、生成する閉域の内部において、己自身を保っている純粋同一性以外にありません。

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実存者と純粋同一性の違い

今回は、実存者と純粋同一性の違いについて簡単に書きます。

【実存者の「実」】
実存者は、歴史内存在的に在ることで、己の実性を世界の実性に預け、安心することはできる。しかしそれは、実存的なものとしての歴史的世界の内存在ではあっても、従って自ら実存的ではあっても、世界の外部、超越者を志向するような真なる実存者、壊れやすくその実を己で担い、崩壊を一瞬一瞬堪えているような実存者でない。崩壊の常なるリアリティに堪えているのは、この場合世界の方である。世界に無の点が内在する、とは、世界が関係=差異、つまり場所となることであり、それにより存在者は、場所において実でありつつ、己に固有の抽象的対象を世界の外に措定することができる。それが、共同体からの、主体的自我の成立である。

つまり実存者とは、純粋同一性と違い、自ら可変的な内容を持つ実体である。従ってその主体的実性は超越的内容を媒介変数とした関数の値である。また存在論的レベルにおいて、可変的な内容を持つ抽象的対象(抽象的ノエマ)を、その志向対象とすることで、抽象他者と相関しつつ、抽象他者を実たらしめることで、己の実性が、つまりその内容が可変的であるにも拘らず実性をもつことが可能なのである。抽象他者を実たらしめるとは、既に己の思考の枠組みを制約しており、その志向の枠組みにおいて抽象他者の抽象性を剥ぎ取った、ということである。


【純粋同一性の「実」】
他方で、規定されきった全体性、時間の全体性は、純粋同一性の絶対差異による自存から語られねばならない。この絶対差異とは、純粋同一性の内容でありつつ純粋同一性の絶対他者、絶対異質である。それはまた、投げ出された存在者としての、原要求、己の実性の不断の要求にも求めることができる。この存在者は、己の実を、絶対差異としてもっているが、己の実を己で支えなければならない。己の内容としての絶対他者を、常に対象とすることで、その実体性は維持できるが、そのことで己の内容以外の対象を持つことができない。つまり、抽象他者をもつことができず、常に己自身の内容を参照することでのみ、己の実性を保っている。

次回は純粋同一性と時間との関係について語ります。

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プラトンにおけるイデアと、純粋同一性の違い。存在なき存在者。

フロイトやラカンにおける「欲望」なるものは、一見神秘的なものに映ります。神秘的というのは、もはやそれがそうである理由を、思弁によっては明らかにできない自体を言うのです。

これから、プラトンのイデア説を私なりに解釈しつつ、プラトン的イデアと、純粋同一性との差異をはっきりさせたいと思います。まずは、一般的な話から始めます。それは恐らく神話的でしょうが、存在を欠いた存在者のお話です。つまり、存在者は、あるとき、何もない虚無に投げ込まれた、という神話。

そのとき、この存在者の欲望とは、存在すること、つまり恒久不変な実体化の欲望です(これを「実を求めること」と以後表現します)。本来、存在することが、かくも自明でなく、刹那的であり(現象的であり)、どこからか不明な場所、不可知な場所から投げ出されたものであり(存在なき存在者、原贈与)、常に己の実を求めつづけなければならないような過酷なものだとすれば、この欲望とは神秘的でもなんでもないのです。神秘は、欲望にではなく、その欲望の源となった、原贈与へと振り替えられたのです。

結局、哲学においては、どこに神秘を置くか、が問題なのであり、神秘性をいささかも含まぬような、経験世界についての唯一の理論はありません。この場合だと、原贈与に神秘性を集中して割り振ることで、欲望の神秘性を剥ぎ取ったわけです。

「経験とは理念的である」という逆説が、今までの私の立場でしたが、それは今や、「経験の理念性の蓋然性の絶対化」、と表現されます。つまり、経験とは、いくらそれを追い求めて、学問的に記述しようとも、常に学問による解明を逃れ続けのであり、つまり永遠に自らを(人間的な)経験へと完全に引き渡すことのない、物自体なのだ、と。しかしこの仮定は、当然蓋然的です。科学によって、経験世界が「現状において」説明しつくされていないがゆえに、このことを超帰納化して、科学によっては経験世界は永遠に解明不可能だとして、経験の不可知性を絶対化した、ということです。

したがって、経験の理念性とは神秘的です。逆に、科学とは、経験の理念性の否定の蓋然性の絶対化であるという意味で、厳密な意味で、経験の理念性テーゼと対称的であり、したがって等しく神秘的なのです。物理学は非経験的な理論である限り神秘性を外部に排除することで、神秘的なものに言及することを免れています。しかし、物理の言葉で、経験世界に言及しようとすると、経験に必然的に含まれる神秘性を内部に抱え込み、その神秘性を、物理的に還元することがその仕事の全てになるのです。

このことは、ブラシエが『Nihil Unbound-Enlightenment and Extinction』の第一節で、ポール・チャーチランドの排除主義や還元主義を批判しているところにも、その一端が見えるでしょう。

では、プラトンについてのお話に移ります。プラトンにおけるイデアについては、質料の方が、イデアを希うのです。無根拠で形もなく、刹那に消滅してしまう己を、根本からその実(恒常普遍の実体性)への変容を迫るような、能動的形相による支配を望むのです。だから、規定を望むのではあるが、離散するイデアのうちの特定のものを望むような、安定した実という状態になく、規定は差し迫っています。つまり超越者であればなんでもよく、一般的超越者を志向するのであり、志向ということによって、正しく超越を乗り越えられるのです。言い換えれば、イデアとは、それ自身述語でありそこに諸々の存在者を包摂ー述語付けをするのです。それ自身でやっと存在性を保っている質料、つまり未規定性は、述語付けられることで、つまり超越者への志向が成功することでー彼は超越者というきわめて一般的な存在を志向できるだけであり、個々のイデアを参照出来ないから、どのイデアが彼を規定するのか、は、イデア界の方の事情で決まるしかないのだが―そのイデアを場所として、己の実性をイデアに担保してもらうことで、自らそれに内在的に実でありつつ、そのことでやっと質料である己の力能、生成が可能になるのです。

これは、うまくいったプラトニズムの解釈です。しかし、質料とは、そもそも自存できず、そのそもそもの起源からして、理由なく投げ入れられたものだとするならば、以下のように議論は変容していきます。

ここで投げ出された存在者(つまり質料)とは、純粋同一性と違って、己の内容としての絶対差異を持たず、単純な未規定性です。
それは、可変的・可塑的な形相(形態)をもつ質料として、プラトン的な意味での、欲望、つまり支配の欲望です。しかし、プラトンのように、質料をまったくそのままの意味で用いれば、それは自存するいかなる内的根拠も持たないのであるから、そこで質料が誕生しては刹那に滅するような、質料界という、そこで「質料という存在」が担保される、実的で恒常的な領域を設定せざるを得ません。しかし逆に、個々の質料が刹那滅でありつつ、もし、質料界という恒常的な領域に内在することで、その実性を保証されているのならば、なぜそれは形相によって限定される必要があるのでしょうか。つまり、なぜ、現象であって、存在でないのでしょうか。ここでは、イデア界は、まったく宙に浮いていて、無視可能などころか、消去が可能なのです。


同じ投げ出された存在者、つまり存在に先立つ存在者としての純粋同一性においては、事情は全く異なってきます。次回はそのことについてお話します。

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第一章 「存在と無」~『純粋同一性』と永遠生成の閉域 4

純粋同一性のお話の続きですが、今回は多少経験的な場面から語りましょう。

急にかけがえのない形を思い付く、といったことが、あると思います。ここで「形」とは、一般的な意味で言っているので、ラノベの設定とか、新しい旋律だとか、なんでもよいです。しかしそれらは、本当に、その人によって「創造」されたのでしょうか。

急に頭に浮かんでくるような、こうした新しい「形」の発想は、その人の認識論上の文脈との連続性を欠くからこそ、創造的だといわれます。しかし、なぜ「そのメロディー」なのでしょうか。なぜ「その形態」なのでしょうか。この「なぜ」が説明されてしまったら、
すなわち「そのメロディー」の根拠が、あくまで世界内在的に説明されてしまったら、それは、結局脳内の神経やニューロンの過程に還元される、ということを意味しますが―それは本来の意味での創造ではないはずです。今まで存在しなかった、新しい存在者(メロディー、モチーフ、形態、概念等々)が、その当人の認識論的文脈になんら依存しないで、突如として出現する。だからこそ、それは創造と言われるのであり、その発生を非文脈的に根拠づけねばならないのです。まず、その「なぜ」を、非世界内在的に、つまり外部主義的に解明することで、「創造」の神秘性を剥ぎ取る。次いで、「そのメロディー」の「その」を、つまり突如浮かんだメロディーの掛け替えのない一回性を、つまりは実存性を、明らかにする。このことが、課された課題です。そしてその回答が、純粋同一性ということになりますが、もう少しこの課題について考えてみます。

メロディー、モチーフ、等々、これら新しい存在者を今後さしあたっては「形態」と呼びますが、その実存性を明らかにする、という場合、私は実存の根拠を論じようとしているのですが、例えば人間といった複雑な存在者(なぜ複雑かと言えば、彼は多くの可能な思考方法を相対的に持っており、またそれと相対的に相関する多くの可能な実在及びその実在で定義される世界を持っているから)の実存性を明らかにする場合とは、異なったアプローチが必要となってきます。人間の実存においては、その実存を可能にする領域が語られますが(超越論的実存主義)、形態に関しては、それは明らかにこの実存する人間と相関的に、あるいはそれを条件として成立します。しかし、形態の創造ということが、この人間の実存性の内在性に訴えられないのならば、人間の実存性とは超越しつつ、しかし人間の実存を通して、それは成立する、ということになります。言い換えれば、それは人間の実存の外部にあるのですが、したがって歴史内在的・文脈依存的な世界内存在が、そこに内在する世界から超越しているのですが、しかしこの歴史や世界といった経験的領域への/からの、何らかのアクセスが存在する、ということになります。

加えて、こうして経験世界から超越した形態なるものは、要するに超越的存在としてのイデアなのですが、しかしイデアと違うのは、それらが徹底的に一回性をもつ実存者である、ということです。それは、プラトン的イデアが、その普遍性によって自ら存在しているのとは違い、反普遍性ともいうべき特異性をもっているので、ますます己の内容によってのみ、その「一回性」でありつつかつ「永遠の」実存性でなければなりません。この形態の内容は、前回も述べたように、要するに差異です。絶対に他とは異なることが、永遠に保証された差異であり、他との関係によってアポステリオリに生じた機能的差異ではないのです。

当然、そのような差異は、どこから来るのか、と問われるでしょう。しかし、それには答えることは出来ません。絶対差異をもったアプリオリな存在者であるゆえに、その内容たる差異は、絶対化されているので、それ以上の起源を問うことができないのです。だから、その実存は、人間の実存と違って、その成立を可能ならしめる論理を語ることができません。
このようなアプリオリな存在者としての形態は、各々特異性をもっているのですが、リュック=ナンシーなどが述べるような、「特異性の分有」などでは全くありません。このことについては、次回詳しく論じます。

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第一章 「存在と無」~『純粋同一性』と永遠生成の閉域 3

前回は、「有と無という二元論が、質料と形式という二元論に先行する」という言い方をしてしまいましたが、本当は、生成とは、質料と形式の二元論によってのみでなく、有と無の二元論の言葉によっても記述できる、という程度に捉えて頂けると助かります。

また、このもの性(実存)という条件と、その形である(形態性)こと、これらは別々の原理であり、それぞれ独立したものであることを、強調します。純粋同一性とは、この形であること、すなわち形態、ゲシュタルト、といったものに関係します。

純粋同一性とは、一言で言えば、可能な存在者の集合です。つまり、まだ現実化していない限りで、世界の外部に、非経験的なものとしてストックされています。つまりこれからお話しなければならないのは、なぜこの可能な存在者といったものが、必然的に世界の外部で集合を成していなければならないか、ということについてです。そのために、少しこの可能な存在者なるものの一層細かい規定をしていきましょう。

ある可能な存在者は、その現実化の条件として、他の存在者、系列、環境をもつと考えられますが(このあたりの記述は、ずいぶん前に書いたものであるので、少々荒いところがあります)、この条件は、当の存在者に予め含まれておらず、従って、その条件を自ら持たない限りで、この可能な存在者はただ己の内容によってのみ、世界の外部に離散しているのです。己の内容によってのみ存在する、とは、あらゆる他者と関係を持っていないということでありつつ、しかも内容をもつのであるから、最初の方で言及した無の点ではありません。有の点という言い方も出来るでしょう。しかも、です。なんとこの可能な存在者は、他者をもたないにもかかわらず、差異を持つ、と、当面は主張されます。差異とは、関係によって生じる、ということは理解できることです。不可識別者同一の原理に従うなら、互いに差異のないものは同一である、ということですが、そしてそれは、差異がそこで成立する場とか関係、世界といったものを前提するのですが、ここでは、差異があるのにも関わらず、彼らはその差異ある己の内容によって、関係を一切欠いたまま存在しているのです。関係や世界、及びそれを前提した不可識別者同一の原理が適用されないところで、己の内容の差異の根拠、理由をもたない、つまり絶対の差異をもつこのような有り方こそが、可能な存在者といわれるものです。つまりそれは、ネットワークを一切もたないまま、ネットワークによる機能化だとかそういうシステム論的な枠組みから外れた存在者なのです、さしあたっては。

そして、これらの可能な存在者は、どのようにして、従って何を条件として現実化するかは、予め決まっておらず、従ってその現実化の条件は、後から、アポステリオリに、経験的に定まります。

それは、予めー在る存在者であり、内容が完全に決定されていて、ただその現実化の条件だけを欠く。

なぜ可能な存在者、という概念が必然的であるのか、そのことについてはお話できませんでした。それは次回以降に回します。

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