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第一章 「存在と無」~『純粋同一性』と永遠生成の閉域 3

前回は、「有と無という二元論が、質料と形式という二元論に先行する」という言い方をしてしまいましたが、本当は、生成とは、質料と形式の二元論によってのみでなく、有と無の二元論の言葉によっても記述できる、という程度に捉えて頂けると助かります。

また、このもの性(実存)という条件と、その形である(形態性)こと、これらは別々の原理であり、それぞれ独立したものであることを、強調します。純粋同一性とは、この形であること、すなわち形態、ゲシュタルト、といったものに関係します。

純粋同一性とは、一言で言えば、可能な存在者の集合です。つまり、まだ現実化していない限りで、世界の外部に、非経験的なものとしてストックされています。つまりこれからお話しなければならないのは、なぜこの可能な存在者といったものが、必然的に世界の外部で集合を成していなければならないか、ということについてです。そのために、少しこの可能な存在者なるものの一層細かい規定をしていきましょう。

ある可能な存在者は、その現実化の条件として、他の存在者、系列、環境をもつと考えられますが(このあたりの記述は、ずいぶん前に書いたものであるので、少々荒いところがあります)、この条件は、当の存在者に予め含まれておらず、従って、その条件を自ら持たない限りで、この可能な存在者はただ己の内容によってのみ、世界の外部に離散しているのです。己の内容によってのみ存在する、とは、あらゆる他者と関係を持っていないということでありつつ、しかも内容をもつのであるから、最初の方で言及した無の点ではありません。有の点という言い方も出来るでしょう。しかも、です。なんとこの可能な存在者は、他者をもたないにもかかわらず、差異を持つ、と、当面は主張されます。差異とは、関係によって生じる、ということは理解できることです。不可識別者同一の原理に従うなら、互いに差異のないものは同一である、ということですが、そしてそれは、差異がそこで成立する場とか関係、世界といったものを前提するのですが、ここでは、差異があるのにも関わらず、彼らはその差異ある己の内容によって、関係を一切欠いたまま存在しているのです。関係や世界、及びそれを前提した不可識別者同一の原理が適用されないところで、己の内容の差異の根拠、理由をもたない、つまり絶対の差異をもつこのような有り方こそが、可能な存在者といわれるものです。つまりそれは、ネットワークを一切もたないまま、ネットワークによる機能化だとかそういうシステム論的な枠組みから外れた存在者なのです、さしあたっては。

そして、これらの可能な存在者は、どのようにして、従って何を条件として現実化するかは、予め決まっておらず、従ってその現実化の条件は、後から、アポステリオリに、経験的に定まります。

それは、予めー在る存在者であり、内容が完全に決定されていて、ただその現実化の条件だけを欠く。

なぜ可能な存在者、という概念が必然的であるのか、そのことについてはお話できませんでした。それは次回以降に回します。

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第一章 「存在と無」~『純粋同一性』と永遠生成の閉域 2

さて、前回はほとんどお話できなかった、「純粋同一性」の概念についてお話しようと思います。このお話は長くなることが予想されますが、本当にゆっくりと、簡明に語ることを心がけます。

まず、「純粋同一性ってなんぞ?」と聴きたくなると思います。それに一言で答えると、「これから在り得る、またこれまで在り得た、存在者全体の集合」ということになります。つまり、未来に実現される存在者とは、予め世界の外部にストックされている、と。こんなことを言うと、本当に馬鹿みたいに思われるかもしれません。プラトン以下のプラトニズムと言われたり、他方、差異哲学への反動と言われたりするかも知れません。しかし、前回もちょっとだけお話した通り、この純粋同一性の領域なるものは、最終的に、「永遠生成の閉域」及び「時間の全体性」と同一視されることになります。そこまで論じるところまできたところで、初めて、この聴き慣れないタームのトリヴィアル性というか、馬鹿げた性質が取り除かれることを期待します。

とにかくゆっくりいきましょう。まずは、古代ギリシア哲学以来からの、質料と形相と呼ばれるものの検討から始めます。

質料とは、有と無の混合です。つまり、形の恒常的否定でありつつ、かつ有の即時的存在です。即自的存在といったのは、質料の方が経験的な存在だからです。ところで、距離、これを私は無の有化と捉えますが―もまた、有と無の混合と見れると思います。が、それは正確でなく、言葉通り、無を有化したものであって、有の作用化としての有化を、無に作用したものが、いわゆる空間である、と取りあえずはして置きましょう。現代の微分幾何学や位相幾何学、多様体論、またそのさらなる発展については重々承知していますが、お分かりでしょうが文脈が全く異なる、ということで一つご了承ください。

ところで、ここでギリシア的世界観といったものを、仮に次の二つの平面に分けて表現します。形だけがある抽象的形状の平面(イデア界とかつて呼ばれたもの)、質料だけがある平面。ギリシア的世界観においては、イデア界とは恒常不変であり、つまり形といったものも、永遠に変化などしません。

しかし、現代でこういうプリミティブなプラトニズムを本気で主張する人はいないでしょう。というのも、形は生成のなかで生じてくる、というのが、ドゥルーズはもちろん、社会システム理論やその他の領域では一般的な見解だからです。

その場合、形といったものも、それが生成的である限りで、有と無、肯定と否定の交代、あるいは存在―存在の形式つまり一般的規則つまりアルゴリズム、およびそれらの否定として捉えられるでしょう。この有と無の混合たる形態に、無が作用したり、やはり有と無の混合たる質料が充足されたりすることが有り得ますが、それがまた無の有化たる空間において、有の肯定、つまり移動を受ける、といたことが生じます。こうした現象一切を取り仕切るのは、有と無の混合の程度、割合、強度などではなく(そこでは、質料と形式とが、同じ混合から帰結する)、どこまでも原理をすり抜ける、原理の組み合わせによるその説明を逸脱する、絶対的個性の原理、つまり、存在するもの、また存在しうるあらゆるものの個性、実存がそこに予め包括されている、理念的このもの性が、考えられると思います。こうしたことを主張したのは、もちろん私が初めてなどというはずもなく、ドゥンス・スコトゥスが既に「このもの性」という用語で形相と質料からなる見方を超えた見方を提示していましたし、また我が国においても、西谷啓治は、空の場においてこそ、ものが「それぞれの自体的な有り方のうちに現成する」、と説いていました。

以上のことから、存在するとは、つまり「そのかたちである」とは、一切の条件に先立つこのもの性(これは実存性という別個の原理を要請します)とは別の条件として、有と無という二つの運動の原理によって説明され得ます。その際、同じ有と無の混合という条件によって、質料と形式という背反するものが同時に生じます(二元論の根拠)。つまり有と無という二元論が、質料と形式という二元論に先行する、ということです。

今回はここまでにして、次回からは、要するにこの「かたち」つまり「形態」こそが純粋同一性である、という話をします。

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第一章 「存在と無」~幾何学の問題―内部高次元と貫入の論理7

前回までで、貫入そのものについては大体お話しました。それには、多世界性ということが前提されていました。一つの世界、領域は、1,いかなる存在者を許容するか(可能な存在者の規定)、2、存在者がそこで可能な形式とはどのようなものか(空間の規定)、3、存在者間に要請されるルールとは何か(固有の法則の規定)、以上三つの条件によって限定される、と述べました。この理解は暫定的なものであり、今後改正される可能性は大いにありますが、このように諸領域を互いに外部的にすることによって、例えば、心について述べることは心という領域の基本存在者とそれらが存在する形式、及び法について語ることであり、物理的なジャーゴンは一切記述の中に入ってはならないのであって、それはしかも物理を否定するということではない、と主張できるのです。当然逆も言えます。物理的世界の記述は、観念性の入る余地のないものであって、だから、時折、法則とは帰納からなる一般性に過ぎない、といったことが主張されますが(カルナップとポパーの対決を念頭に置いています)、法則が蓋然的であるのは、法則が経験的なものであるからです。当の経験をする存在者(主体)たる人間、といったものは物理世界には存在せず、ただ肉体的、物質的な身体があるのみなので、法則は完全に一義的に、従って世界内在的に決定されています。前回はそこのところが少し混乱していました。すみません。

しかし、人間なるものは、心という領域と、身体という物理的領域というパラレルな秩序の総合である、のですらなく(それは神という媒介を人間的実存に置き換えただけのスピノザ主義、並行論でしょうが)、人間なるものは存在しない、とも言えます。その存在しないもの、つまり本当は無の点(の対)なのですが―、その「人間」なるものの本質が、やれ物質的だ、やれ心的だ、と争っている場が、まさに物質的な思考のイマージュを根本にもつ諸々の「主体(=視点)」と、観念論的な思考のイマージュをもつ諸々の主体(視点)とが、出会う、この経験的な場であり、それは物質的イマージュと観念的イマージュとが互いに貫入している、そのまさに貫入面である、といえます。

このことを一般化し、対立が生じているのは、常に相反する立場=視点をもつ経験的主体が、その表面に張り付いている、それらの立場同士のの貫入面である、とすれば、当然思考のイマージュ=視点の数だけ、それらがそこに立脚する領域における実在に対して責任を取るべき領域(この実在に対して負う責任という概念は、パトナムから得ました)が、離散しているのです。なのですが、しかし同時に、もし、ある大きな問題といったものが、そこで諸々の立場が争い、己の視点に固執し、しかもその問題が根本的であればあるほど、対立や討論によってはその問題が解消できない、そういった理念的な問題があるとすれば、まさにそここそが、諸領域に立脚する諸々の視点・思想がそこで貫入していることによって、少なくとも別の思想・視点との公共的討議の場を貫入面として可能にしているのです。理念的な問題、問題である限りの問題が、諸々の立場を寄せ集める、というと少しドゥルーズ的でしょうか。

一つの現象について、様々な異なる解釈が可能であるという事実が、我々が、ただ一つの世界に内在することができず、常に貫入面に存在することを示しています。つまり、経験とは、ある問題について、様々な領域が貫入しているその貫入面に存在する、ということです。極端に言えば、物理的世界と心的世界は、経験という諸領域の交錯から、それぞれが独立した領域であるために(つまり貫入した先で己の純粋な唯一性を得るために)、貫入しているのですが、その経験の場=貫入面での存在者として唯一可能なのが、人間という存在者です。ええ、先ほどは人間という存在者を否定しましたが、ここで新たに導入しようとしている人間概念は、以前にもお話した無の点の対です。常に抽象的な他者を持っている、というのが、「人間的な存在者」の必要条件だとするなら、我々は物理的な領域・心理的な領域の、どちらの秩序の存在者をも対象とできる構造をもっている、ということになります。

ああまたステレオタイプについて語ることが出来ませんでした。ですが、大体はお分かりでしょう。ステレオタイプとは、専門性を欠いた、経験世界についての最も緩い体系的認識です。以前、「リゾームこそが、世界に存在する思考者全体の思想が、そこで表現された場である」、といいましたが、このリゾームの表面を覆い尽くすセリーの交錯こそが、ステレオタイプ体系の交錯であり、
一つ一つのステレオタイプ体系は、極めて緩く閉じていますが、それは容易に他のステレオタイプ体系に移行しうるので、結果としてあらゆる思考者の思想がそこで表現される場とは、リゾームという非体系的な表現に還元されるのです。

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第一章 「存在と無」~幾何学の問題―内部高次元と貫入の論理6

前回は、世界の相対性、離散性を論じました。

諸々の世界は、そのパラメータの変化だけで己に固有の法則を維持可能な場合には、アクチュルであると認められます。
つまり独立した領域、自性をもつ領域として認められます。このことをもう少し精緻に述べます。

各領域固有のルールは、どのように形成されるか。それは世界の差異化に伴って自然形成されるのか、それとも法を生成する領域、立法の領域が、別に、諸世界に対して超越的に存在するのか。

法とはまず、その領域においていかなる存在者が存在可能かを示します。つまり、存在者とは本来内容ないもの(空)ですが、その具体的内容を決定します。それはその領域内部ででしょうか?外部ででしょうか?そもそも法則とは、存在者に内在的なのか、外在的なのか。外部主義的に、後者であるとしましょう。それは単なる規約ではなく、そもそも存在者が空である、ということにしっかり基づいています。それで、存在者、固有の空間、法則の三つが、ある領域であることの、必要条件です。

また、存在者を構成する実質が、世界内在的なのか外在的なのかですが、ケノンの裏側の開ー空間(これはずっと後に論じます)が生成する実質が、全く中性的だということを利用するならば、実質の規定は世界内在的と言えるでしょう。例えば自然世界ならば、微小な粒子レベルでの法則によって、自然世界固有の存在者つまり物体の貫入不可能性が帰結するでしょう。つまり上で述べたことと合わせれば、存在者を構成する微小部分の性質によって、法則が決定され、それによって、可能な存在者が決定されるのですが、微小粒子の規定は世界内在的です。しかし法は世界の外部で、既に存在者を決定していました。決定された存在者は、既にそれが持ちうる、というよりそれから構成されうる、粒子を割り当てられています(指示していると言ってもよい)。ここの、厳密な循環ではないにしても、リニアな思考では解しにくい事態は、ある領域の条件といったものを、ただパラレルに並べることで満足させます。

また延長という性質は、仮に、実質の総和というかたちで自然世界固有のものだ定義するとしたら、他の領域でも延長という概念があるかは、決定されません。

例えば他の領域では、延長とは他の存在者を可能にする場として捉えられると思いますが、それは物質世界では地球の大地に当たるようなものですが、大地は既に科学的には相対化されている上、何を可能にしているのか、という事実が重要なのであって、その大きさを計測できるようなものではないのです。

空間や関係といった概念は、その表現としては、諸世界の十分条件として、存在者と同じレベルに現れますが、本当は、空間(や関係)は、いかなる存在者がそこで可能なのか、といった存在者の存在の一般的条件、法を定めるものである限りで、本来的には、存在者から超越した上位の審級です。つまり、空間は、存在者の規定を表現し、定めるものです。
存在者を多義的に条件付けるなら、それは何かしら意味的な領域でしょう。(←この部分は、現在より一般化されました。すなわちある現象なり存在者なりが、2つ以上の規定を持ちうるならば、それは複雑性をもつ、というシステム論によって。しかし、存在者が複雑性を持つのは、そのものに互いに異なる規定を行う体系が交錯し合う、貫入面においてなのです。また、意味が一義的でないのは、パースペクティズムに依りますが、視点の差異自体は、世界の複数性というレベルではなく、前回に触れたステレオタイプ体系の交錯といったレベルで生じます。ですので、視点の差異と複数性による物質に対する理解の差異も、そのレベルで生じます。なお物質に対してパースペクティズムが成立するということは、物質即現象を意味するでしょう)。一義的に条件付けるなら自然世界でしょう(物質にはそれ自体に意味はない)。

偶然的に条件付けるなら、それはより超越論的な開ー空間であるでしょう(ドゥルーズやバディウがそれについて争った、この「開空間」という概念の独自の解釈についても、ずっと後で論じます)。

我々は事実として、そこである現象の解釈が両立しない、二つの世界の貫入面に存在してます。それは必然的なのか。意味領域における「主体」(主観ではない)でなく、物理世界における存在者でない、つまり二つの秩序が交錯する場としての、貫入面においてしか、事実、思考し、対立する、存在者という形式を持てず、私という無の点に対して現前しているもう一つの無の点、つまり抽象他者、と私という無の点の対は、その他者が意味領域の存在者でも物理的対象でもある限りで、貫入面に配分される必要条件であるといえます。

これから述べることは、ややナイーブですが、貫入についての直観的な理解を与えるでしょう。

諸領域は、相対的で離散的だが、ここで各領域を存在者とすると、己と同じ権利を有する他の秩序という他者がいるのを嫌うのである。しかし、一度貫入してしまえば、貫入面という永遠の抗争の場を人間に委ねる他は、自ら絶対的となることができる。諸領域は、理念、つまり目的を持つがゆえに、常なる進歩を各々志向するのであるが、貫入先とは、安住の地、閉域であり、もはや目的も生成ももたない、静的な、遺棄された、それは根底であり、上層の貫入面での抗争を支える、下部構造でありつつ、理念から解放され、自由に掘り進み、いずれは自らの貫入面を切断し、唯一の意味となり、その限りで、明かされるべき何ものも持たない、自らからの出発、となるのではないか。そこは純粋に、己(その領域の存在者)についての、己の対象についての言及だけの言説空間となる。他者を失い孤立した領域は、己の存在物を一義的に理解できるが(観念論、物理主義)、まさに存在の基体が、本質的に物質的かつ観念的である存在者にとっては、貫入面にしか己が措定され得ないがゆえに、厳密に言って、領域固有の存在者のみが在り、本質的に身体的/精神的である我々は、貫入先に存在することはできない。ただ実質を持たない存在を生産し、従ってその作用域が、あらゆる領域の実質的条件に免疫をもつ想像力だけが、基体を貫入面に置いたまま、貫入先で、受動的に感覚し、能動的に対象に作用する。

またまた、ステレオタイプと貫入について論じるのを先延ばしにしてしまいました。
ですが、貫入についての重要な部分はほとんど述べました。

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第一章 「存在と無」~幾何学の問題―内部高次元と貫入の論理5

さて、今回も貫入の論理についての話ですが、ステレオタイプとの関連についてお話する、と予告していました。
しかし、そのためには、まず、世界の外部性、多世界性を語らねばなりません。

貫入とは、まず、物理的にはあり得ません。つまり禁止されているのです。逆に言えば、物質的世界以外の世界、領域においては、個別に絶対的・相対的法則、規則、ルールが存在するでしょうが、貫入は特別禁じられません。なぜなら、その領域における基礎存在者が、物質ではないからです。観念は、観念と相互貫入することがあり得ます。

最終的な現実とは、物質性が支配し、貫入は禁じられます。否、最終的な物質の支配などありません。それはルールを定められた一つの世界でしかないのです。

さてまた、自然世界内部では、その基礎存在者が物質であるがゆえに貫入は予め禁止されていますが、この自然世界そのもの、この領域そのものは、貫入は禁止されません。自然世界や観念世界を超越した、領域を可能にする領域は、最も緩い規則を持った、メタ的な場です。むしろ規則などなく、ただ、そこにおいて諸々の特異性を持った世界、領域が、その内部に散らばっているのを可能にしているだけです。

超越的な秩序、無意識等は、その本性において物質以前だから(物質の秩序と並行する別の秩序だから)、パラレルに離散する一方で、互いに貫入が可能です。それは、互いを写像で対応させる必要をなくします。

上にも述べましたが、空間において貫入が生じることから、空間は物質の次元でなくメタ的次元であることが明らかになります。空間とは、諸世界に対して一般的な概念です。

また、貫入とは、単に2つの集合の共通部分ではないのか、と考える方もおられましょう。その際、集合というとあまりに具体性を欠いているので、述語論理における、2つの述語の共通部分、つまり内包(つまり性質)の連言ではないのか。

貫入が、単に2つの集合の共通部分と異なるのは、まず集合論においては、共通部分の成員が、その2つの集合がそれぞれもつ性質を2つとも持っている、ということであり、この共通部分はまた集合なのである、ということです。
貫入とは、予め断ったように、混合とか混ざることといったこととは違います。貫入部分は、双方の項の性質を、貫入によって失わないのです。また双方は、貫入によっては、それがもつ実存性をいささかも失わないので、ある共通空間のある領域にて、2つの存在が、その空間の次元を上げることなく可能です。

貫入は、複数の存在が、同時に同じ場所にある、という物質的矛盾を、次元を上げることで解決するのではない、といったような、非物質的な事態なのです。

貫入は、それが生じている場所で局所的に次元が上がっていて、それが両者の独立性、並行性を可能にしながら、貫入面にて相互作用を可能にする、といったものでしょうか。すなわち、貫入の論理は、宇宙において様々に次元が異なった領域が存在する、という次元の非物質性、非一義性なのでしょうか。

例えば非物質的な、夢における人物や世界の貫入は、それを対象とした一つの超越自我が、あるいは貫入部に存在する内在自我が、どういう経験をすることなのでしょうか。

何度も強調しますが、貫入のメタ的秩序において、次元数の増加でもって貫入を物質の論理で解決するということは、そのまま貫入の物理的解決に過ぎないのです。

しかし私は、のちに考えを変えました。次元数の増加は、なんら物理的解決ではない。なぜなら、空間は物質的秩序に固有なものではない、つまり物理的世界の存在者たる物質に内在していないからです。

空間性ということが、あらゆる領域において認められる、というより領域の条件と領域の差異の条件となっているならば、様々な領域が、貫入によって、貫入先で己の秩序を維持しつつ、貫入面で、秩序の交錯が起こっている、ということです。しかもさらに言えば、次元数の増加による物理的解決など必要ありません。なぜなら、領域に固有の空間性は互いに異なるため、次元そのものが各々異質であり、それを上げることで各々の領域の存在者が同時存在可能になるような、さらに一般的な空間を要請する必要がないからです。一般的空間については、上にも述べましたが、アプリオリに各領域を可能にする、最も緩い空間性であって、それが禁止するものは何もありません、それはただ、包んでいるだけで、位置や次元、ルールといった物理的で抽象的な規定など一切持ちません。

達摩の空(くう)、法の空。矛盾は、貫入面で起こっているのと同時に、貫入そのものが物理的には矛盾であったのですが、寛大な空は、矛盾をも包み、あらゆる領域を包みつつ、自性を持たず、それらの好きなままにさせているのです。

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