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第一章 「存在と無」~ドゥルーズの出来事の理論と西田的絶対無2

さて、西田においても、無とは、かたちあるものでなく、むしろそれを生み出すものとして、つまり純粋な作用として、積極的に評価されました。この点は私も変わりません。無は、純粋な作用を無限に生産する点なのです。

また、無の性格として、ドゥルーズ的特異点の性格を加えましょう。出来事の本質とは何か。それは、切断です。
文脈の切断、事故です。それまで平穏に続いていた日常への、突然のショック、地震などです。出来事とは、終わらせるものです。
だから、出来事としての無が、文脈に接触すると、文脈を切断します。

以上、無の点はこの二つの性格を持ちます。しかしながら、これでは、無の点が、何か存在の外に外在しているように見えてしまいます。存在の外、とは無ですが、無に無の点がある、とはどういうことでしょう。それは西田が絶対に認めない論理的矛盾ではないでしょうか。

ですから、無の点が離散する空間というのは、厳密に言って、無ではないのです。田辺の言う、有化された無ですらない。それは、虚無です。厳密にいえば、無とは、有に内在するときに、無限に延長を否定するから、有の内部でのみ点であるのだ、とも主張できましょう。しかし、他方で、無の点とは、原初的な自我でした。自我の離散という事態に鑑みて、それは虚無においてすら点の表象をもちます。

虚無、とは、ここでは、空間ではありません。これを説明しましょう。ライプニッツによる、「不可識別者同一の原理」という有名な原理があります。簡単に解説すれば、互いに識別できない2つの個体は、同じものだ、というものです。しかしそれは、同じ空間、同じ世界における話ではないでしょうか。この不可識別者同一の原理を逆手に取ります。同じもの、全く同じものが、互いに何の関係も永遠に持ちえないから、離散している、ということです。無の点は、内容を持ちません。だから、全て同じものです。同じものが、互いに絶対に関係しない場で、数に関して任意だから、自然数個離散している。この場を、ケノンと名付けましょう。それは空間ではなく、要請された虚無であり、現実から遠のいた、現実から超越した場です。

超越的パラレリズムが超越的と言われるのは、ラジカルな経験論でないこと、また、内在性にまったく拘束されないこと、そして、無の点が、それぞれ並行して離散していること、これらからも選ばれた呼称なのです。
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