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第三章 生成という幻想 1. 生の形式的定義と、一なるものとしての経験

経験が有限個な実在からなる複雑性だとすれば(なぜなら、無限個の実在、ということが既に経験を超えているからである、従って)、生とは無限個数の実在から構成される複雑性である。無限個数とは、文字通りの意味で取られるべきであって、数的な多である。ドゥルーズの潜在的な2つのタイプの多様体の区別、あるいはバディウの実体的多様体と非実体的多様体の区別とは異なる。
生をこう定義することで、まず生命の無限の複雑性と神秘性とが形式的に説明される(ことで剥ぎ取られる)。しかし同時に、ヴァイタリストが主張するような、生の自己生成的な性格が奪われる。すなわち生とはこの定義によれば、それ自身超越的で静的な実体なのである。


経験は、任意個数の(ただし有限個の)実在の主張を普く許容するからこそ(一元論にしろ二元論にしろ、多元論にしろ)、一なのである。経験は数多の主張から成る、そして数多の主張は、その多数性をなんら解消されぬままで、一である。だからこそ、経験にこそ認識論的なリゾーム状のモデルが適切だ、前に言ったのである。だから、結局ブラシエその他のように、物質こそが唯一の実在である、という思考に基づく世界の射程全体を、経験は認識論的に、また生は存在論的に、そのうちに含む。

従って、それは全宇宙、在りうる実在の全体からなる総合である(無論このことで生命の不可知性は一切減ぜられない。それゆえ、生はここで超越論的な原理でなく、超越的で形而上学的なものとして考えられているのである)。その意味でそれは究極的な内在的審廷としての一なるものである。先ほど、経験もまた一である、と言ったことも想起されたい。

当然物質性をもその構成要素として含む。だから生命に物質性が見いだせるのは当然であり、それのみによって生命を捉えようとする試みが尽く失敗するのも当然である。

経験的実在は、知られている実在、知識の限界に相関的な実在性でしかないが(それでも「物質」を実在として選ぶことで、宇宙全体を思考の射程に収められる、とするのが思弁的実在論である)、理念的複雑性とは、無限個数の実在からなるから、不可知な実在を必然的に含む。その不可知性が、そのまま生命の神秘であり、かつ宇宙の神秘である。

だから、実在とは何か?と議論するのでなく、無限個数であるがゆえに各々が特殊であるような、ある任意の特殊な実在に、形式的に追加された生=一なるもの=無限個の実在の総合、が総合されることによって、いかなる経験が生じるかを論じるべきなのである。しかしここで、特殊な実在とは当然無限個の実在の総合である生のうちに含まれているから、ある特殊な実在の一と、無限個の実在の多とから、つまり一と多の対から、生成が生じるがごときである。しかし、この特殊な実在は重複しない、なぜならこの無限個の実在の多は、総合されているからである。結果として、上の操作は、一なる形式的なもの(特殊な実体)と、一なる神秘的なもの(生)との総合のことなのであり、そこから何が形式的に生じるかを論じるべきだ、という主張を帰結するのである。

しかし、総合とはなんであろうか?無限個の実在の離散、ということなら、それは形式的にあらゆる宇宙の宇宙を構成するであろう。しかし、無限個の実在の、総合なるもの、これこそが内在的には導出不可能で、恣意的で形式的になされるほかない外的操作なのである。その操作を行うものは誰か?生ではあり得ない。だから、総合を遂行する主体が外部に存在する。この主体は既に形式の平面、形而上学の平面から超越した、経験の世界にいなければならない。経験は超越だ、と言った。だが上の記述では、経験が形式的に説明されている。総合が形式的平面においては内在的に説明不可能であるならば、それは経験的な作用であろうし(なおカントのアプリオリな総合とは、この経験的主体による形而上学的平面に対する外的操作のことである)、経験が形而上学的に説明可能であるならば、それは形而上学的な経験に過ぎないだろう。

次に論じられるのは、この「総合」という我々が日々当たり前のように遂行している作用についてである。

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何者なんですか。。。
更新期待しています!

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