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導入:超越的パラレリズムとは何か~終末論

超越的パラレズムを特徴づける性格の一つに、徹底した「終末論」があります。これは、当然キリスト教的な終末論ではありません。

どういうことか。一つには、3.11大地震の影響もあります。あのとき私は、なぜ地震が東日本を中心としたものに留まり、日本全体、いやアジア全体、地球全体が崩壊しなかったのか、と疑問に思いました。それは、もちろん地質学的には回答できるのでしょうが、しかしながら、人類の「破壊に対する免疫」の余りの脆弱さ、それに加え、破壊の偶然性について思い知らされました。私は、今日外出しても事故死しなかったが、それは偶然ではないか。私の存在から見て偶然であり、それを大きな因果から見て、事故が起きなかったことが必然である、というのは、私に対して外的なものではないか。

これが、出来事の非情さです。私が、ドゥルーズからもっとも多く学んだのは、まさに出来事についての論理であり(デリダもそのようなことを言ってましたね)、偶然についての考え方です。

さて、人類は破壊に対してあまりに免疫がありません。地球というちっぽけな星が崩壊したら、いや、地表が荒廃したら終わりです。人類を、いつか終わるもの、と考えること。太陽系の崩壊か、あるいは核戦争か、エネルギー不足か、地震かは分かりませんが、とにかく楽天的にだらだら持続していくものとしての人類でなく、確実に滅亡するものとしての人類を考えること。

これは、しかしながら、非常にポジティブな側面をも併せ持ちます。究極の個人主義は、楽天的に持続すると思われる種や社会に関してでなく、世界、人類の終わりが、もしこの個人の死と同時に起こるとしたら、という仮定のもと、思考される、ということ。もし、人類が明日滅ぶならば、種をそれ以上存続させよう、といういかなる努力も無意味です。個人個人が、終末に際して、いかに在るか、いかに振る舞うか、が全問題となります。

しかし、その際、紛争地域などで起こっているような、略奪や、性の荒廃が起きないのか。どうせ明日死ぬんなら、せめて今だけでも快楽を貪ろう、という輩が湧いてこないか。

こういった、人類の終末を前提したうえで、個人はいかにあるべきか、集団はいかにあるべきか、について論じる、いわば超越的パラレリズムの下位部門が、「サイバーデス」とも名づけられるべき倫理学です。
なぜこの倫理がサイバーデスと呼ばれるか。それは、確実に機械の方が人類より永く延命するでろうからであり、したがって人類が滅亡してなお、宇宙の至る所で機械が作動している、というSFを念頭に、サイバーパンクに呼応して名付けられたからです。

次回は、このサイバーデスの倫理についてもう少し詳しく書きます。
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No title

>これは、しかしながら、非常にポジティブな側面をも併せ持ちます。究極の個人主義は、楽天的に持続すると思われる種や社会に関してでなく、世界、人類の終わりが、もしこの個人の死と同時に起こるとしたら、という仮定のもと、思考される、ということ。もし、人類が明日滅ぶならば、種をそれ以上存続させよう、といういかなる努力も無意味です。個人個人が、終末に際して、いかに在るか、いかに振る舞うか、が全問題となります。

ここはなるほどと思ったお

No title

読んでいただいて有難うございます。実際に人類が滅ぶかどうかはともかく、既成の価値観を転換しよう、というのが目的の一つだったりします。
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