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第一章補遺。アプリオリな形式の交差としてのリゾームモデル。

フランソワ・ラリュエルの「非哲学」によれば、超越論は超越的カテゴリーの統一であり、一なるものであるが、超越は多様なカテゴリーです。

今ここで、リゾームをいったん、ドゥルーズ的な発生的ポテンシャル(つまり超越論的で生成的な要素)から引き離してみましょう。つまりそれを、形而上学的・超越的な平面に置き直して、アプリオリな諸形式の交差である、としてみましょう。するとここで、リゾームとは前経験的・抽象的パラメータの交差であるから、認識論的かどうかも未規定な状態です。それは存在論的である限りで、存在そのものであり、経験的に外部にあった純粋な存在者の諸領域を結ぶ関係=場所として、存在そのものなのです。つまりそれは、諸領域内の純粋な存在者、及び実存の形式をもつ間世界的な存在者の相互的なアクセスを提供している。

諸形式は、抽象的である限りで、交差できます。もし諸形式が、何らかの内容に関する形式なら、それはパラメータです。また、パラメータの自己超克が、ドゥルーズにおける強度です。

逆に、抽象的諸形式に経験性が与えられない限りで、その個数及び交差は無制約的であるのです。もし経験性が与えられれば、リゾームは超越へのアクセスを失い、有限性へと囲い込まれてしまう。なぜなら、経験においては形式の純粋な交差は不可能であり、交差していたものは互いに超越するから、形式によるアクセシビリティが失われるからです。つまりリゾームは存在者にとっての場所=関係でなくなり、各々の形式が、内容に関する経験的な形式となって、まさに経験的内容によって、制約されます。ある経験的存在者に関する、同じ内容に関する形式は、複数存在しえません。

こうして、存在そのものだった諸形式の交差は、(離散する諸領域内の)存在者から絶対的に切断され、認識論的なものとなります。同時に間世界的存在者は、世界内存在となります。抽象的である限りで無制約的だった形式の個数が、有限個へと制約される。あるいは、もし経験において諸形式の交差が可能だとしたら、それは同一な内容をもつパラメータということになるが、経験的には、同じパラメータにおいて二つの異なる値を取ることは出来ないため、結局は不可能です。

この存在論的リゾームにおけるその形式の交差点が、もし特異な点であるならば、それは経験的に言えば複雑な状態であり、従ってそれを巡って経験化しつつあるセリーが、それに関して互いに交差不可能であるような、問題的な点となるでしょう。特異点にはセリーが対応するのであって、それを通るのではない、という意味の論理学におけるドゥルーズの記述の意味がここで明らかになると言えるでしょう。

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