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第一章 「存在と無」~『純粋同一性』と永遠生成の閉域 2

さて、前回はほとんどお話できなかった、「純粋同一性」の概念についてお話しようと思います。このお話は長くなることが予想されますが、本当にゆっくりと、簡明に語ることを心がけます。

まず、「純粋同一性ってなんぞ?」と聴きたくなると思います。それに一言で答えると、「これから在り得る、またこれまで在り得た、存在者全体の集合」ということになります。つまり、未来に実現される存在者とは、予め世界の外部にストックされている、と。こんなことを言うと、本当に馬鹿みたいに思われるかもしれません。プラトン以下のプラトニズムと言われたり、他方、差異哲学への反動と言われたりするかも知れません。しかし、前回もちょっとだけお話した通り、この純粋同一性の領域なるものは、最終的に、「永遠生成の閉域」及び「時間の全体性」と同一視されることになります。そこまで論じるところまできたところで、初めて、この聴き慣れないタームのトリヴィアル性というか、馬鹿げた性質が取り除かれることを期待します。

とにかくゆっくりいきましょう。まずは、古代ギリシア哲学以来からの、質料と形相と呼ばれるものの検討から始めます。

質料とは、有と無の混合です。つまり、形の恒常的否定でありつつ、かつ有の即時的存在です。即自的存在といったのは、質料の方が経験的な存在だからです。ところで、距離、これを私は無の有化と捉えますが―もまた、有と無の混合と見れると思います。が、それは正確でなく、言葉通り、無を有化したものであって、有の作用化としての有化を、無に作用したものが、いわゆる空間である、と取りあえずはして置きましょう。現代の微分幾何学や位相幾何学、多様体論、またそのさらなる発展については重々承知していますが、お分かりでしょうが文脈が全く異なる、ということで一つご了承ください。

ところで、ここでギリシア的世界観といったものを、仮に次の二つの平面に分けて表現します。形だけがある抽象的形状の平面(イデア界とかつて呼ばれたもの)、質料だけがある平面。ギリシア的世界観においては、イデア界とは恒常不変であり、つまり形といったものも、永遠に変化などしません。

しかし、現代でこういうプリミティブなプラトニズムを本気で主張する人はいないでしょう。というのも、形は生成のなかで生じてくる、というのが、ドゥルーズはもちろん、社会システム理論やその他の領域では一般的な見解だからです。

その場合、形といったものも、それが生成的である限りで、有と無、肯定と否定の交代、あるいは存在―存在の形式つまり一般的規則つまりアルゴリズム、およびそれらの否定として捉えられるでしょう。この有と無の混合たる形態に、無が作用したり、やはり有と無の混合たる質料が充足されたりすることが有り得ますが、それがまた無の有化たる空間において、有の肯定、つまり移動を受ける、といたことが生じます。こうした現象一切を取り仕切るのは、有と無の混合の程度、割合、強度などではなく(そこでは、質料と形式とが、同じ混合から帰結する)、どこまでも原理をすり抜ける、原理の組み合わせによるその説明を逸脱する、絶対的個性の原理、つまり、存在するもの、また存在しうるあらゆるものの個性、実存がそこに予め包括されている、理念的このもの性が、考えられると思います。こうしたことを主張したのは、もちろん私が初めてなどというはずもなく、ドゥンス・スコトゥスが既に「このもの性」という用語で形相と質料からなる見方を超えた見方を提示していましたし、また我が国においても、西谷啓治は、空の場においてこそ、ものが「それぞれの自体的な有り方のうちに現成する」、と説いていました。

以上のことから、存在するとは、つまり「そのかたちである」とは、一切の条件に先立つこのもの性(これは実存性という別個の原理を要請します)とは別の条件として、有と無という二つの運動の原理によって説明され得ます。その際、同じ有と無の混合という条件によって、質料と形式という背反するものが同時に生じます(二元論の根拠)。つまり有と無という二元論が、質料と形式という二元論に先行する、ということです。

今回はここまでにして、次回からは、要するにこの「かたち」つまり「形態」こそが純粋同一性である、という話をします。

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