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第一章 「存在と無」~『純粋同一性』と永遠生成の閉域 1

前回の最後でお話したことで、ステレオタイプについての記述は十分だと判断したので、今回からは、しばらく私が『純粋同一性』と名付けた概念について語ります。この概念は、私の時間論にも深く関わってきます(時間論については別ブログのこの記事からを参照)。なぜなら、最終的に、「純粋同一性とは、永遠生成の閉域と同一であり、さらにまた時間の全体性と同一である」ということが帰結されるからです。

ところで、本題に入っていく前に、私自身の立場が、西洋の現代哲学の中でどういった位置づけにあるであろうか、という見通しをはっきりさせておくべきときが来た、思います。

以前にも言及しましたが、私の立場は、徹底した「外部主義」であり、「超越を肯定する並行論」であり、そのことで多元論的ではあるが、京都学派の即非の論理を多用することで「多即一」の立場であり、また同じく京都学派から「場の論理」を受け継いでおり、場が西洋的パースペクティビズムに対立する、という思考から「反遠近法主義」であり、それにも拘らず明らかな「相対主義」でありつつ、相対主義が必ず陥るパラドックスについては、「無の点」という「無の外在性(即内在性)」及び場所の論理、自覚によってそれを回避します。

また、ポストモダン後にあって実存を重んずる「ポスト実存哲学」であり、ドゥルーズ由来の「生成の哲学」でありつつ、楽観的な発展論に疑問を差し挟み、非宗教的な「終末論」であることで、真の「個人主義」を実現可能と考え、同時に「種の意味の否定」、それどころか「種の実在の否定」を主張します。また同時に、古くはショーペンハウエルからベルグソン、ドゥルーズにまで受け継がれる、生命的なものを根本におく態度を、神秘主義的として片付けます。それは生命の神秘性を剥ぎ取るのに何ら貢献しないからです。そして俯瞰でなく「自覚」の哲学であり、真に具体的なるもの(すなわち現(Da)及び実存者)がいかに可能か、という「超越論的実存主義」(これはあまりうまい言い方でないかも知れないが)です。そして、これまでの記事から明らかなように、「無の哲学」であり、西洋的な包摂、及び一般化志向に反対します。その代り、20世紀の哲学の潮流に反し、実体的なものをある意味で肯定し、それとは絶対に超越的な「作用」にこそ、非存在的で、無に固有のはたらきを見ます。

私の哲学の、リアリティーの全てをそこに負っているものとは、3.11の大地震です。それは記事の初めの方にも書いた通りです。
そして近頃ようやく日本でも浸透してきたらしい思弁的実在論には、「偶然性の肯定」という立場に、共通するものを見ます(最もドゥルーズやバディウにおいて既に偶然性は存在論的に肯定されていたのだが)。

思弁的実在論、と呼ばれるものは、私には、古代ギリシアのポリスにおいて、労働を奴隷に押し付けたことで得られた自由な知識人が、アゴラにおいて交わす、融通無垢なふわふわとした思弁論、というように映ります。なぜなら、それは時代に対して責任を負っていないからです。なぜこの時代に、この哲学が主張されねばならないか、ということを、その体系内部で説明できているのかが、疑問だからです。言い換えれば、リアリティーがない、思弁的な遊戯に思えるからです。実存主義や、構造主義、ポスト構造主義は、そうではなかった。それに固有のリアリティーがあり、時代に対して責任を負っていた。

まあこれに関連しては、目下あまりに情報に乏しく、全体像なるものがそもそも描けるのかどうかすら不明ですので、予断は差し控えましょう。再度繰り返すと、私の哲学がそれに依っているリアリティーとは、「歴史の終焉」であり、しかも外部から出来事的、偶然的に到来する、人類の死です(同じような発想を、レイ・ブラシエという哲学者がしており、私は彼の主著を取り寄せている最中です。しかし彼は、残念なことに、いわゆる素人哲学に否定的なようです。しかし真のリアリティーとは、アカデミズムの外に在るものではないでしょうか。ともあれ、ここのブログでも、今後彼の哲学を訳しつつ紹介できれば、と思っております)。

そして、「何が実在であるか」についての、分析哲学の長い伝統は、無意味なものとして映ります。なぜなら、実在とは物質であるか心的なものであるか、という議論については、あくまで「私の立場からは」既にこの一つ前の記事で解決済だからです(それは半実在論や非法則的一元論、内在的実在論、自然主義、自然な実在論等々、を否定することではない)。

本当は以上のことを、もっと早く書いておくべきだったとは思うのですが、私自身の立場が固まってきて、現在主流の大陸哲学に対しても分析哲学に対しても独自な位置にいる、という自覚が固まってきたので、この段階で書いておくことにしました。

純粋同一性のお話については、次回に譲ります。

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