スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

第一章 「存在と無」~幾何学の問題―内部高次元と貫入の論理7

前回までで、貫入そのものについては大体お話しました。それには、多世界性ということが前提されていました。一つの世界、領域は、1,いかなる存在者を許容するか(可能な存在者の規定)、2、存在者がそこで可能な形式とはどのようなものか(空間の規定)、3、存在者間に要請されるルールとは何か(固有の法則の規定)、以上三つの条件によって限定される、と述べました。この理解は暫定的なものであり、今後改正される可能性は大いにありますが、このように諸領域を互いに外部的にすることによって、例えば、心について述べることは心という領域の基本存在者とそれらが存在する形式、及び法について語ることであり、物理的なジャーゴンは一切記述の中に入ってはならないのであって、それはしかも物理を否定するということではない、と主張できるのです。当然逆も言えます。物理的世界の記述は、観念性の入る余地のないものであって、だから、時折、法則とは帰納からなる一般性に過ぎない、といったことが主張されますが(カルナップとポパーの対決を念頭に置いています)、法則が蓋然的であるのは、法則が経験的なものであるからです。当の経験をする存在者(主体)たる人間、といったものは物理世界には存在せず、ただ肉体的、物質的な身体があるのみなので、法則は完全に一義的に、従って世界内在的に決定されています。前回はそこのところが少し混乱していました。すみません。

しかし、人間なるものは、心という領域と、身体という物理的領域というパラレルな秩序の総合である、のですらなく(それは神という媒介を人間的実存に置き換えただけのスピノザ主義、並行論でしょうが)、人間なるものは存在しない、とも言えます。その存在しないもの、つまり本当は無の点(の対)なのですが―、その「人間」なるものの本質が、やれ物質的だ、やれ心的だ、と争っている場が、まさに物質的な思考のイマージュを根本にもつ諸々の「主体(=視点)」と、観念論的な思考のイマージュをもつ諸々の主体(視点)とが、出会う、この経験的な場であり、それは物質的イマージュと観念的イマージュとが互いに貫入している、そのまさに貫入面である、といえます。

このことを一般化し、対立が生じているのは、常に相反する立場=視点をもつ経験的主体が、その表面に張り付いている、それらの立場同士のの貫入面である、とすれば、当然思考のイマージュ=視点の数だけ、それらがそこに立脚する領域における実在に対して責任を取るべき領域(この実在に対して負う責任という概念は、パトナムから得ました)が、離散しているのです。なのですが、しかし同時に、もし、ある大きな問題といったものが、そこで諸々の立場が争い、己の視点に固執し、しかもその問題が根本的であればあるほど、対立や討論によってはその問題が解消できない、そういった理念的な問題があるとすれば、まさにそここそが、諸領域に立脚する諸々の視点・思想がそこで貫入していることによって、少なくとも別の思想・視点との公共的討議の場を貫入面として可能にしているのです。理念的な問題、問題である限りの問題が、諸々の立場を寄せ集める、というと少しドゥルーズ的でしょうか。

一つの現象について、様々な異なる解釈が可能であるという事実が、我々が、ただ一つの世界に内在することができず、常に貫入面に存在することを示しています。つまり、経験とは、ある問題について、様々な領域が貫入しているその貫入面に存在する、ということです。極端に言えば、物理的世界と心的世界は、経験という諸領域の交錯から、それぞれが独立した領域であるために(つまり貫入した先で己の純粋な唯一性を得るために)、貫入しているのですが、その経験の場=貫入面での存在者として唯一可能なのが、人間という存在者です。ええ、先ほどは人間という存在者を否定しましたが、ここで新たに導入しようとしている人間概念は、以前にもお話した無の点の対です。常に抽象的な他者を持っている、というのが、「人間的な存在者」の必要条件だとするなら、我々は物理的な領域・心理的な領域の、どちらの秩序の存在者をも対象とできる構造をもっている、ということになります。

ああまたステレオタイプについて語ることが出来ませんでした。ですが、大体はお分かりでしょう。ステレオタイプとは、専門性を欠いた、経験世界についての最も緩い体系的認識です。以前、「リゾームこそが、世界に存在する思考者全体の思想が、そこで表現された場である」、といいましたが、このリゾームの表面を覆い尽くすセリーの交錯こそが、ステレオタイプ体系の交錯であり、
一つ一つのステレオタイプ体系は、極めて緩く閉じていますが、それは容易に他のステレオタイプ体系に移行しうるので、結果としてあらゆる思考者の思想がそこで表現される場とは、リゾームという非体系的な表現に還元されるのです。

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へ
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。