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第一章 「存在と無」~幾何学の問題―内部高次元と貫入の論理6

前回は、世界の相対性、離散性を論じました。

諸々の世界は、そのパラメータの変化だけで己に固有の法則を維持可能な場合には、アクチュルであると認められます。
つまり独立した領域、自性をもつ領域として認められます。このことをもう少し精緻に述べます。

各領域固有のルールは、どのように形成されるか。それは世界の差異化に伴って自然形成されるのか、それとも法を生成する領域、立法の領域が、別に、諸世界に対して超越的に存在するのか。

法とはまず、その領域においていかなる存在者が存在可能かを示します。つまり、存在者とは本来内容ないもの(空)ですが、その具体的内容を決定します。それはその領域内部ででしょうか?外部ででしょうか?そもそも法則とは、存在者に内在的なのか、外在的なのか。外部主義的に、後者であるとしましょう。それは単なる規約ではなく、そもそも存在者が空である、ということにしっかり基づいています。それで、存在者、固有の空間、法則の三つが、ある領域であることの、必要条件です。

また、存在者を構成する実質が、世界内在的なのか外在的なのかですが、ケノンの裏側の開ー空間(これはずっと後に論じます)が生成する実質が、全く中性的だということを利用するならば、実質の規定は世界内在的と言えるでしょう。例えば自然世界ならば、微小な粒子レベルでの法則によって、自然世界固有の存在者つまり物体の貫入不可能性が帰結するでしょう。つまり上で述べたことと合わせれば、存在者を構成する微小部分の性質によって、法則が決定され、それによって、可能な存在者が決定されるのですが、微小粒子の規定は世界内在的です。しかし法は世界の外部で、既に存在者を決定していました。決定された存在者は、既にそれが持ちうる、というよりそれから構成されうる、粒子を割り当てられています(指示していると言ってもよい)。ここの、厳密な循環ではないにしても、リニアな思考では解しにくい事態は、ある領域の条件といったものを、ただパラレルに並べることで満足させます。

また延長という性質は、仮に、実質の総和というかたちで自然世界固有のものだ定義するとしたら、他の領域でも延長という概念があるかは、決定されません。

例えば他の領域では、延長とは他の存在者を可能にする場として捉えられると思いますが、それは物質世界では地球の大地に当たるようなものですが、大地は既に科学的には相対化されている上、何を可能にしているのか、という事実が重要なのであって、その大きさを計測できるようなものではないのです。

空間や関係といった概念は、その表現としては、諸世界の十分条件として、存在者と同じレベルに現れますが、本当は、空間(や関係)は、いかなる存在者がそこで可能なのか、といった存在者の存在の一般的条件、法を定めるものである限りで、本来的には、存在者から超越した上位の審級です。つまり、空間は、存在者の規定を表現し、定めるものです。
存在者を多義的に条件付けるなら、それは何かしら意味的な領域でしょう。(←この部分は、現在より一般化されました。すなわちある現象なり存在者なりが、2つ以上の規定を持ちうるならば、それは複雑性をもつ、というシステム論によって。しかし、存在者が複雑性を持つのは、そのものに互いに異なる規定を行う体系が交錯し合う、貫入面においてなのです。また、意味が一義的でないのは、パースペクティズムに依りますが、視点の差異自体は、世界の複数性というレベルではなく、前回に触れたステレオタイプ体系の交錯といったレベルで生じます。ですので、視点の差異と複数性による物質に対する理解の差異も、そのレベルで生じます。なお物質に対してパースペクティズムが成立するということは、物質即現象を意味するでしょう)。一義的に条件付けるなら自然世界でしょう(物質にはそれ自体に意味はない)。

偶然的に条件付けるなら、それはより超越論的な開ー空間であるでしょう(ドゥルーズやバディウがそれについて争った、この「開空間」という概念の独自の解釈についても、ずっと後で論じます)。

我々は事実として、そこである現象の解釈が両立しない、二つの世界の貫入面に存在してます。それは必然的なのか。意味領域における「主体」(主観ではない)でなく、物理世界における存在者でない、つまり二つの秩序が交錯する場としての、貫入面においてしか、事実、思考し、対立する、存在者という形式を持てず、私という無の点に対して現前しているもう一つの無の点、つまり抽象他者、と私という無の点の対は、その他者が意味領域の存在者でも物理的対象でもある限りで、貫入面に配分される必要条件であるといえます。

これから述べることは、ややナイーブですが、貫入についての直観的な理解を与えるでしょう。

諸領域は、相対的で離散的だが、ここで各領域を存在者とすると、己と同じ権利を有する他の秩序という他者がいるのを嫌うのである。しかし、一度貫入してしまえば、貫入面という永遠の抗争の場を人間に委ねる他は、自ら絶対的となることができる。諸領域は、理念、つまり目的を持つがゆえに、常なる進歩を各々志向するのであるが、貫入先とは、安住の地、閉域であり、もはや目的も生成ももたない、静的な、遺棄された、それは根底であり、上層の貫入面での抗争を支える、下部構造でありつつ、理念から解放され、自由に掘り進み、いずれは自らの貫入面を切断し、唯一の意味となり、その限りで、明かされるべき何ものも持たない、自らからの出発、となるのではないか。そこは純粋に、己(その領域の存在者)についての、己の対象についての言及だけの言説空間となる。他者を失い孤立した領域は、己の存在物を一義的に理解できるが(観念論、物理主義)、まさに存在の基体が、本質的に物質的かつ観念的である存在者にとっては、貫入面にしか己が措定され得ないがゆえに、厳密に言って、領域固有の存在者のみが在り、本質的に身体的/精神的である我々は、貫入先に存在することはできない。ただ実質を持たない存在を生産し、従ってその作用域が、あらゆる領域の実質的条件に免疫をもつ想像力だけが、基体を貫入面に置いたまま、貫入先で、受動的に感覚し、能動的に対象に作用する。

またまた、ステレオタイプと貫入について論じるのを先延ばしにしてしまいました。
ですが、貫入についての重要な部分はほとんど述べました。

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