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第一章 「存在と無」~幾何学の問題―内部高次元と貫入の論理4

貫入の論理と、ステレオタイプの関係について考えます。

リゾームという単語は、甚だドゥルーズ=ガタリ的ですが、私はこの概念を、次のように使います。
すなわち、リゾームこそが、世界に存在する思考者全体の思想が、そこで表現された場である、と。
すなわち、リゾームとは、その共通部分が、常識(コモン・センス)であり、共通でない部分が、専門的領域であり、
またリゾームの非体系性は、その内部で容易に矛盾する命題が同時に生じ、よってそれが対立する、という事態を可能にします。

あらゆる領域、世界、イデオロギーに関する思想表明の絡み合う場としてのリゾームが、唯一の世界の潜在的で共同的な表象として、蠢いています。この、万人が潜在性としてそこに理知的に参加している共通リゾームと、個々の存在者のステレオタイプ(共通観念)の両立とは、どのようなものでしょうか。

リゾームが思想の絡み合う場だというなら、意識はリゾームという潜在性、あるいはリゾームの局所的問題圏という潜在性を媒介して自然世界の存在者と出会うはずです。すなわち、ある思考、思考のイマージュ、思考の様式、を媒介して初めて、自然世界(クワインの言う内包を排した世界)の存在者(要するに物理的な物体)を対象とすることが出来ます。しかしながら、この存在者は、当然ある思考の枠組みによって出会われることが明らかになったのですから、その純粋な姿でなく、意味、現象という形式を取ります。

普通に生活していて、あらゆるものをステレオタイプで覆っており、従って根源他者を忘却し、形態直観(要するに意味以前のものそのもの、特異的でステレオタイプに覆い隠されている存在者を直視すること)をすることのない人は、認識を成り立たせるものとしてのリゾームという超越論的領域においても、あらゆる問題圏をステレオタイプで覆い、ステレオタイプ同士の接続という、「常識」を媒介して、自然世界内を身体を媒介して運動しています。

リゾームというのも、それ自身ではまた具体的規定を欠いた抽象的なシステムですが(リゾームとはもはやシステムの一カテゴリー、ないし一形態と捉えます)、そのプリミティブな形式は、問題圏、すなわち無の点の離散と、その接続による関連化と差異化です。この原初的レベルでは、問題そのものはいかなる規定にも出会うことはありません。規定はむしろ、リゾームそのものがそれの経験の条件となるような、具体的な世界からやってきます。しかし、具体性は、抽象的なシステムのリゾームとは永遠に相互外在的であり、従って単に対応するだけです。

自然世界、及び観念世界の、ラジカルな概念的分割が、アポステリオリに各未規定な問題に対応します。この分割は経験的なものだから、当然最終的な問題の布置を決定するものではありません。リゾームは動的で局所的に常に新しい。こうして局所的に、それぞれ他とは異なった思考の枠組みが形成されます。

ここまでで、リゾームという概念の捉えなおしを図りましたが、それによってステレオタイプとの関連性は示唆されたものの、未だ貫入の論理との関連は語られていません。次回は、リゾームという潜在的な場所と、貫入の論理との関係を、はっきりと規定します。

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