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第一章 「存在と無」~幾何学の問題―内部高次元と貫入の論理3

今回は、貫入の論理についてお話します。私が貫入の論理を電撃的に考え付いたのは、イギリスの画家、フランシス・ベーコン(哲学者じゃない方です)の個展に行った時のことです。そこでは、具体的な形態が、相互に複雑に入り込んでいたのです。

無でも有でもない、光は通すが身体は通さぬ透明なものがあります。ガラスです。しかしガラスは物体です。
物体と物体とが、互いに入り込むなどということは、物理的には在り得ません。そこに穴のようなものがない限り。
また一方に穴のある固体に、液体が流れ込む、と言ったことでない限り。しかもそれは、私の考える貫入ではありません。

つまり、有の有への貫入です。柔らかい有は、押されたら凹むが、貫入とは、どこにも無がないのに、有の否定です。
貫入と、初めからある穴に通すこととの違いに気を付けましょう。同一性を連続体に解体してしまわない、貫入。次元を上げることで解消されない、限りある次元での貫入。

また形態の事実上の解体である(ベルグソン的な)相互浸透でもなく、形態を保ったまま、入り込むこと。
それは一義的空間の否定であるでしょう。ある系に他の系が貫入しており、無を媒介するのですらないこと。
貫入の論理においては、例え一瞬であるにしろ、たった一つの空間が言えない、ある主体の属する部分が別の部分に入り込んでいる、という話でなく、同一なる身体が伸ばされ、片端が別の己の部分に貫入することで、異物となるような、事態です。
私の左手が、もし、私の右手に入りこんだら、左手にとって右手は異物であり、逆も同様です。

そもそも貫入を禁止する有の法則とは、それを認めてしまうと、貫入する方もされる方も、もはやそれが最初に言われていた意味で、「在る」とは言われなくなるからです。それは、貫入した途端、どちらも無くなるか、どちらも無くならないなら、二重の空間が生ずる、ということです(貫入が生じていない外部では、空間の同一性が言えても)。

貫入とは、接触すると、実質はなんら交わらないのであるから、接触面を境に、全く相手が消え去る、別の空間へと離別する、ただ表面で接触したことが唯一の出会いであって、内容面・実質面の交流は一切ありません。貫入においては、そもそも同一の世界に属していたものが、全く別の2つの世界に離別することであり、単なる並行といったものではないです。相互貫入の場合、それが深くなるにつれ、接触面は深くなるが、一方的なそれの場合は、貫入先に対して己の深さを晒す。まさに接触面において、またその上でのみ、実質の交流が起こっている、ということです。

闇の景色、星空、夜景に対し、昼の景色は光によって生ずる陰影を含む。

今回は貫入の論理について、少しお話しました。実は、この貫入の論理によって、パトナムの意味論的概念である「ステレオタイプ」の意味が、明らかになります。すなわち、常識とは何か、専門とは何か、そして貫入面における対立とは何か。

次回も引き続き貫入の論理についてお話します。

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