スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

第一章 「存在と無」~ドゥルーズの出来事の理論と西田的絶対無4、無と問題系、『穴』

無とは、西田によれば、媒介がないこと、間がないこと、即連結することであるから、それはかえってあらゆるものを繋ぎ止めるのです。あらゆる接続を連続性のみに負わせるのでなく、無に旦保させる。

逆に、有とは何か。新しさのない一般的世界は、「ただ在る」にまで性質を奪い去られている。だから、それはただ在るだけであり、それ以上の性格をもたない一般的な有であるのです。

 部屋は、内部を囲いこんでいるがゆえに、部屋と呼ばれるが、部屋の内部の穴は、それが存在を媒介なしに通過させるからこそ、無なのです。部屋は、部屋という存在を媒介して、つまり部屋が内部を含む、という能動です。

無とはまた、問題系内部の穴をも意味します。

いかに抽象的であっても項であることに変わりない項としての存在が、受動し、能動するだけでなく、存在の抽象的穴があり、それは抽象を、媒介なしに、存在の只中で通過させるのです。私にとっては大きすぎる出来事、私によって受け止められ、私の脳に保存されるだけでなく、私の存在を通り抜け、それがそれにとっての出来事であるようなスケールの抽象的存在者がまるで実在するかのように、個人的存在を通り抜け続ける。ある問題系によって受け止められながらも、当の出来事がその問題にとって大きすぎるという理由からでなく、その問題系の存在論的穴によって、媒介なしに(概念や共通性、類似性を介してでなく、むしろ一切共通性を前提しない、全く無契機無理由に)別の問題系へと、通り抜ける。それは、問題系同士の接続より先です。

ある問題系内部の無とは、当の問題系の言語では捉えられない、生産的無=差異であるばかりでなく、当の問題系によっては全く発見されず、気付かれもしない。別の問題系によるその問題系の表象によって初めて暴露される、限界でも欠如でもない。
もし、その問題系における欠如ならば、発見さえされれば充足できるのであるから、欠如とは生産的無であるでしょう。
無は、表象を介してしか発見されないがしかし、当の問題系内部にあるときは、常に接しているのであり、むしろこの無、虚しさが、当の問題系を表象にまで追いやってしまうのです。

ある系における穴、あらゆる他の系へと無媒介的に移行させる穴がある、ということです。また、認識平面、あらゆる認識は、対象論理であろうと主体論理であろうと、認識となった途端、対象を逃す。

それに対して、ドゥルーズ的な、混合あるいは差異化の理論は、存在そのものが減じる・増加する。ドゥルーズにとって存在とは特異点に対応するシステム上のものに過ぎないから、それでも良かったのです。
しかし、それにしても、特異点は徒に増えてはいけないはずです。ドゥルーズは現実的、歴史的、因果的な時間は既にシステムに固有であるから、その外の自由な超越論的時間(第三総合)が問題だったのです。

それに対し、私はリアルな過去を重視、リアルなリニア時間を肯定するが、その上位のシステムを認める、n次元メタの形而上学です。しかしそれでは、nプラス1の背進にならないか?

ドゥルーズは同質なものの背進(第三総合のセリー)は認めても、レベルの異質なものの背進(条件、そのさらに条件)は認めず、むしろそこでは循環が問題になる、という議論をしていました。

そこで次に語るのは、「内部高次元」の発想、特権的な系はなく、複数の系の相互包摂、自由な現存在、という発想です。
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。