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導入:超越的パラレリズムとは何か~その歴史的文脈

こんにちは。くれと申します。かつては、上智大学哲学研究所で、ドゥルーズを研究していたこともあります。
さて、ドゥルーズを研究しているうち、次第に私の心はドゥルーズを離れ、新しい形而上学的体系へと収斂していきました。
このブログでは、「超越的パラレリズム」とも名づけられるべきその体系を、平易に記述することを試みます。
今回は、その導入として、超越的パラレリズムがいかにして誕生したのかについての、思想史的背景を述べます。


ドゥルーズが古典化して、久しくなります。日本ではおそらく、浅田が活躍した1980年代には、もうそうであったでしょうか。研究も進みました。多数の研究者、フォロワーが誕生しました。しかし、それに代わるべき思想というのは、まだ出てきていないように思われます。いかに千葉氏が、ポスト・ポストモダンなどと謳い、メイヤスーやバディウなどが注目されようとも、そうです。それには、主に時代が時代が停滞し、ドゥルーズが活躍したような60-70年代のような、政治的にも非常に苛酷であったような状況が、なんとなく和らいで、これが最適解とまではいかなくとも、すくなくとも当面は、なんら新しい思想なしでも、この21世紀をドライブできている、という現状に依るものと思われます。

しかし、それは、現代を真の危機と捉えていないことの表れです。現代では、危機が隠蔽され、なんとなくなあなあとされてしまっています。私は、大学院を出ていながら、定職にもついていないものですが、そういった境遇をも踏まえ、自分の置かれた立場が、非常に現代的である、という強い自覚をもっています。現代は、隠れた危機の時代です。中東問題とか、アフリカの貧困問題とか、原発とか、資源枯渇とか、そういった目につくような危機とは全く違う、まさに、現代日本に内在する、かつ隠蔽されている、日常的に蔓延している危機です。私はその危機を自覚しているからこそ、従来のドゥルーズのモデルでは満足せず、新しい体系を模索することになりました。

では、この現代日本に固有の「危機」とは何か。それを次回説明します。
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うおおおkyrie来てたあああああ

No title

見ていただいてありがとうございます。
これからは、定期的に更新していこうと思います。

kyrie時代は黒歴史ですが、あの頃はなんだかんだいって努力はしたので、今の自分の思想があると思います。
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