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第三章 生成という幻想 序 「規約主義的かつ構成主義的という立場。」

何か月もほったらかしにしてしまいました。しかしもちろんその間何も考えていあんかったわけではありません。
とりあえずブラシエの「解き放たれた虚無(Nihil Unbound)」については読み終わりました。ラリュエル論とドゥルーズ論に特に惹かれました。白眉は最終章のニーチェ論でしょう。詳しい評論については別に書きます。

ところで、世界ということに触れる前に、第三章とし哲学的概念としての生成なるものに向けた批判を書いておくことにします。
最終的には記事をすべて整理します。世界について少し触れれば、私のやっていることは現代の唯名論だったのであり、つまり個体主義でありつつ、集合なる抽象的存在者は個体および個体間の交渉で生まれる、というようなことを考えていました。この辺りは、N.グドマンの『現象の構造』を読みこむ必要を感じています。そこでグドマンは、「性質対象」なる非具体的なものを単位として、この性質対象から具体的なものを構成する、という手続きをします。それで世界が論理的に構築されていく、というのはカルナップと同じ目的であるでしょう。

私は、もっとラジカルな構成主義を取ろうと思います。そして、現実を、あるいは同じ綴りですが実在を、哲学的に説明しようという意図が既に烏滸がましい物と感じています。現実とは理念である―私はそう今まで強調してきましたが、もはやその信念は「現実とは超越である」という主張にまで極端化されました。こうした見解に至るには、いくつかの哲学的な触発がありました。その一つはラリュエルの「非―哲学」です。非―哲学は、公理論的です。つまり予めの取り決めがあります。しかしそれは唯一「根源的内在性」なるラリュエルのキータームの公理主義的定立に限られていました。ラリュエルについてはまた別に論じる機会があるでしょう。

また、分析哲学において構成主義は規約主義とどうやら対立する立場のようですが、私は構成主義でありながら規約主義である立場を取ります。それが出来るのは、まず構成主義ではあるが、この構成主義は、「現実」なるものを最大の例とする、一切の「それを目指して構成を進めていく」ところの、目的なるものを一切排除するからです。だから、構成主義は、非目的的であり、特に現実を説明しようなどという意図を持たないのです。そこで、この構成主義は、現実から文字通り超越しているのです。したがって、目的性から解放された構成主義は、任意の規約、つまり公理に基づいて仕事をします。(クワインが批判した)「規約によって真」であるのは、あくまで現実についての何事かでした。しかし、もはや真理という問題は消去されます。規約とは、何事か現実的なものについての主張を、相対的に真とするところのものでした。しかし、もはや現実は消去されています。規約は、真理に従属するのをやめて、ただの任意の「取り決め」となり、つまりアプリオリな約束と化し、つまり公理と同一視されます。

この新たな哲学は、もはや「現実を説明する」役目を奪われ、ただ任意に与えられた公理から、内在的に、あるいは操作的・作用的なものによって外在的に、目的もなく際限なく複雑化し、深化していくところの、自己充足性となるのです。しかし、間違ってもこれをヴァイタリズムと解釈してはいけません。この哲学を複雑化し、操作するのは人間の思考です。人間の思考は、もはやこの哲学の外部にあります。なぜならそれは、もはや私の構成主義から排除されている現実的なものだからです。

ヴァイタリズムつまり生の哲学は、無意味どころか、有害なものとみなされねばなりません。生という超越論的なものによって、超越を内在に結び付けようとするこの哲学は、哲学によって現実を捉えようとする試みに外ならず、ブラシエも述べていますが、それは解決不可能な困難に行き当たります。

生、あるいは生成は、単に哲学に対して追加的な構造であり、外部的なアタッチメントに過ぎません。生成に向けられる批判は、哲学のみに当てはまるものではありません。物理学すらそれに抵触します。生成の構造が追加的であり外的であるとすれば、そのことによって無制約的な物理主義も失効されます。なぜなら物理主義とは生成に言及するから、あるいは言及しているかどうかがはっきりしないからです。例えば宇宙の誕生とは歴史でも生成でも、事実でもなく、物理主義を徹底したところにやがて演繹されてくる、一つの(特別な、ないし特異的な)項である。

例えば、エネルギーとは、一つの外的な構造か。生とはまた、エネルギーの生産であり、差異の反復としての永遠回帰である。エネルギーそのものは経済的で有限的であるから、出来事が生じるには、永遠回帰、生という穴、つまり非合理的な湧出点がなければならないが、それは現実的にそうである、というのでなく、仮に物理主義の有限な範囲で、法則外、あるいは特異点、出来事を説明しなければならないとき、エネルギーの湧出としての生成の構造を追加して、その特異性を解消しなければならない、とこういった事情にあるからです。

私は純粋に構成的な哲学について語っています。世界について述べる前に、というのは世界について述べることは、ラジカルな構成主義によってなされねばならないからですが、この構成主義と、生成の外部性、等について、この章では論じたいと思います。

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