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実存者と純粋同一性の違い

今回は、実存者と純粋同一性の違いについて簡単に書きます。

【実存者の「実」】
実存者は、歴史内存在的に在ることで、己の実性を世界の実性に預け、安心することはできる。しかしそれは、実存的なものとしての歴史的世界の内存在ではあっても、従って自ら実存的ではあっても、世界の外部、超越者を志向するような真なる実存者、壊れやすくその実を己で担い、崩壊を一瞬一瞬堪えているような実存者でない。崩壊の常なるリアリティに堪えているのは、この場合世界の方である。世界に無の点が内在する、とは、世界が関係=差異、つまり場所となることであり、それにより存在者は、場所において実でありつつ、己に固有の抽象的対象を世界の外に措定することができる。それが、共同体からの、主体的自我の成立である。

つまり実存者とは、純粋同一性と違い、自ら可変的な内容を持つ実体である。従ってその主体的実性は超越的内容を媒介変数とした関数の値である。また存在論的レベルにおいて、可変的な内容を持つ抽象的対象(抽象的ノエマ)を、その志向対象とすることで、抽象他者と相関しつつ、抽象他者を実たらしめることで、己の実性が、つまりその内容が可変的であるにも拘らず実性をもつことが可能なのである。抽象他者を実たらしめるとは、既に己の思考の枠組みを制約しており、その志向の枠組みにおいて抽象他者の抽象性を剥ぎ取った、ということである。


【純粋同一性の「実」】
他方で、規定されきった全体性、時間の全体性は、純粋同一性の絶対差異による自存から語られねばならない。この絶対差異とは、純粋同一性の内容でありつつ純粋同一性の絶対他者、絶対異質である。それはまた、投げ出された存在者としての、原要求、己の実性の不断の要求にも求めることができる。この存在者は、己の実を、絶対差異としてもっているが、己の実を己で支えなければならない。己の内容としての絶対他者を、常に対象とすることで、その実体性は維持できるが、そのことで己の内容以外の対象を持つことができない。つまり、抽象他者をもつことができず、常に己自身の内容を参照することでのみ、己の実性を保っている。

次回は純粋同一性と時間との関係について語ります。

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プラトンにおけるイデアと、純粋同一性の違い。存在なき存在者。

フロイトやラカンにおける「欲望」なるものは、一見神秘的なものに映ります。神秘的というのは、もはやそれがそうである理由を、思弁によっては明らかにできない自体を言うのです。

これから、プラトンのイデア説を私なりに解釈しつつ、プラトン的イデアと、純粋同一性との差異をはっきりさせたいと思います。まずは、一般的な話から始めます。それは恐らく神話的でしょうが、存在を欠いた存在者のお話です。つまり、存在者は、あるとき、何もない虚無に投げ込まれた、という神話。

そのとき、この存在者の欲望とは、存在すること、つまり恒久不変な実体化の欲望です(これを「実を求めること」と以後表現します)。本来、存在することが、かくも自明でなく、刹那的であり(現象的であり)、どこからか不明な場所、不可知な場所から投げ出されたものであり(存在なき存在者、原贈与)、常に己の実を求めつづけなければならないような過酷なものだとすれば、この欲望とは神秘的でもなんでもないのです。神秘は、欲望にではなく、その欲望の源となった、原贈与へと振り替えられたのです。

結局、哲学においては、どこに神秘を置くか、が問題なのであり、神秘性をいささかも含まぬような、経験世界についての唯一の理論はありません。この場合だと、原贈与に神秘性を集中して割り振ることで、欲望の神秘性を剥ぎ取ったわけです。

「経験とは理念的である」という逆説が、今までの私の立場でしたが、それは今や、「経験の理念性の蓋然性の絶対化」、と表現されます。つまり、経験とは、いくらそれを追い求めて、学問的に記述しようとも、常に学問による解明を逃れ続けのであり、つまり永遠に自らを(人間的な)経験へと完全に引き渡すことのない、物自体なのだ、と。しかしこの仮定は、当然蓋然的です。科学によって、経験世界が「現状において」説明しつくされていないがゆえに、このことを超帰納化して、科学によっては経験世界は永遠に解明不可能だとして、経験の不可知性を絶対化した、ということです。

したがって、経験の理念性とは神秘的です。逆に、科学とは、経験の理念性の否定の蓋然性の絶対化であるという意味で、厳密な意味で、経験の理念性テーゼと対称的であり、したがって等しく神秘的なのです。物理学は非経験的な理論である限り神秘性を外部に排除することで、神秘的なものに言及することを免れています。しかし、物理の言葉で、経験世界に言及しようとすると、経験に必然的に含まれる神秘性を内部に抱え込み、その神秘性を、物理的に還元することがその仕事の全てになるのです。

このことは、ブラシエが『Nihil Unbound-Enlightenment and Extinction』の第一節で、ポール・チャーチランドの排除主義や還元主義を批判しているところにも、その一端が見えるでしょう。

では、プラトンについてのお話に移ります。プラトンにおけるイデアについては、質料の方が、イデアを希うのです。無根拠で形もなく、刹那に消滅してしまう己を、根本からその実(恒常普遍の実体性)への変容を迫るような、能動的形相による支配を望むのです。だから、規定を望むのではあるが、離散するイデアのうちの特定のものを望むような、安定した実という状態になく、規定は差し迫っています。つまり超越者であればなんでもよく、一般的超越者を志向するのであり、志向ということによって、正しく超越を乗り越えられるのです。言い換えれば、イデアとは、それ自身述語でありそこに諸々の存在者を包摂ー述語付けをするのです。それ自身でやっと存在性を保っている質料、つまり未規定性は、述語付けられることで、つまり超越者への志向が成功することでー彼は超越者というきわめて一般的な存在を志向できるだけであり、個々のイデアを参照出来ないから、どのイデアが彼を規定するのか、は、イデア界の方の事情で決まるしかないのだが―そのイデアを場所として、己の実性をイデアに担保してもらうことで、自らそれに内在的に実でありつつ、そのことでやっと質料である己の力能、生成が可能になるのです。

これは、うまくいったプラトニズムの解釈です。しかし、質料とは、そもそも自存できず、そのそもそもの起源からして、理由なく投げ入れられたものだとするならば、以下のように議論は変容していきます。

ここで投げ出された存在者(つまり質料)とは、純粋同一性と違って、己の内容としての絶対差異を持たず、単純な未規定性です。
それは、可変的・可塑的な形相(形態)をもつ質料として、プラトン的な意味での、欲望、つまり支配の欲望です。しかし、プラトンのように、質料をまったくそのままの意味で用いれば、それは自存するいかなる内的根拠も持たないのであるから、そこで質料が誕生しては刹那に滅するような、質料界という、そこで「質料という存在」が担保される、実的で恒常的な領域を設定せざるを得ません。しかし逆に、個々の質料が刹那滅でありつつ、もし、質料界という恒常的な領域に内在することで、その実性を保証されているのならば、なぜそれは形相によって限定される必要があるのでしょうか。つまり、なぜ、現象であって、存在でないのでしょうか。ここでは、イデア界は、まったく宙に浮いていて、無視可能などころか、消去が可能なのです。


同じ投げ出された存在者、つまり存在に先立つ存在者としての純粋同一性においては、事情は全く異なってきます。次回はそのことについてお話します。

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