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第一章 「存在と無」~『純粋同一性』と永遠生成の閉域 4

純粋同一性のお話の続きですが、今回は多少経験的な場面から語りましょう。

急にかけがえのない形を思い付く、といったことが、あると思います。ここで「形」とは、一般的な意味で言っているので、ラノベの設定とか、新しい旋律だとか、なんでもよいです。しかしそれらは、本当に、その人によって「創造」されたのでしょうか。

急に頭に浮かんでくるような、こうした新しい「形」の発想は、その人の認識論上の文脈との連続性を欠くからこそ、創造的だといわれます。しかし、なぜ「そのメロディー」なのでしょうか。なぜ「その形態」なのでしょうか。この「なぜ」が説明されてしまったら、
すなわち「そのメロディー」の根拠が、あくまで世界内在的に説明されてしまったら、それは、結局脳内の神経やニューロンの過程に還元される、ということを意味しますが―それは本来の意味での創造ではないはずです。今まで存在しなかった、新しい存在者(メロディー、モチーフ、形態、概念等々)が、その当人の認識論的文脈になんら依存しないで、突如として出現する。だからこそ、それは創造と言われるのであり、その発生を非文脈的に根拠づけねばならないのです。まず、その「なぜ」を、非世界内在的に、つまり外部主義的に解明することで、「創造」の神秘性を剥ぎ取る。次いで、「そのメロディー」の「その」を、つまり突如浮かんだメロディーの掛け替えのない一回性を、つまりは実存性を、明らかにする。このことが、課された課題です。そしてその回答が、純粋同一性ということになりますが、もう少しこの課題について考えてみます。

メロディー、モチーフ、等々、これら新しい存在者を今後さしあたっては「形態」と呼びますが、その実存性を明らかにする、という場合、私は実存の根拠を論じようとしているのですが、例えば人間といった複雑な存在者(なぜ複雑かと言えば、彼は多くの可能な思考方法を相対的に持っており、またそれと相対的に相関する多くの可能な実在及びその実在で定義される世界を持っているから)の実存性を明らかにする場合とは、異なったアプローチが必要となってきます。人間の実存においては、その実存を可能にする領域が語られますが(超越論的実存主義)、形態に関しては、それは明らかにこの実存する人間と相関的に、あるいはそれを条件として成立します。しかし、形態の創造ということが、この人間の実存性の内在性に訴えられないのならば、人間の実存性とは超越しつつ、しかし人間の実存を通して、それは成立する、ということになります。言い換えれば、それは人間の実存の外部にあるのですが、したがって歴史内在的・文脈依存的な世界内存在が、そこに内在する世界から超越しているのですが、しかしこの歴史や世界といった経験的領域への/からの、何らかのアクセスが存在する、ということになります。

加えて、こうして経験世界から超越した形態なるものは、要するに超越的存在としてのイデアなのですが、しかしイデアと違うのは、それらが徹底的に一回性をもつ実存者である、ということです。それは、プラトン的イデアが、その普遍性によって自ら存在しているのとは違い、反普遍性ともいうべき特異性をもっているので、ますます己の内容によってのみ、その「一回性」でありつつかつ「永遠の」実存性でなければなりません。この形態の内容は、前回も述べたように、要するに差異です。絶対に他とは異なることが、永遠に保証された差異であり、他との関係によってアポステリオリに生じた機能的差異ではないのです。

当然、そのような差異は、どこから来るのか、と問われるでしょう。しかし、それには答えることは出来ません。絶対差異をもったアプリオリな存在者であるゆえに、その内容たる差異は、絶対化されているので、それ以上の起源を問うことができないのです。だから、その実存は、人間の実存と違って、その成立を可能ならしめる論理を語ることができません。
このようなアプリオリな存在者としての形態は、各々特異性をもっているのですが、リュック=ナンシーなどが述べるような、「特異性の分有」などでは全くありません。このことについては、次回詳しく論じます。

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第一章 「存在と無」~『純粋同一性』と永遠生成の閉域 3

前回は、「有と無という二元論が、質料と形式という二元論に先行する」という言い方をしてしまいましたが、本当は、生成とは、質料と形式の二元論によってのみでなく、有と無の二元論の言葉によっても記述できる、という程度に捉えて頂けると助かります。

また、このもの性(実存)という条件と、その形である(形態性)こと、これらは別々の原理であり、それぞれ独立したものであることを、強調します。純粋同一性とは、この形であること、すなわち形態、ゲシュタルト、といったものに関係します。

純粋同一性とは、一言で言えば、可能な存在者の集合です。つまり、まだ現実化していない限りで、世界の外部に、非経験的なものとしてストックされています。つまりこれからお話しなければならないのは、なぜこの可能な存在者といったものが、必然的に世界の外部で集合を成していなければならないか、ということについてです。そのために、少しこの可能な存在者なるものの一層細かい規定をしていきましょう。

ある可能な存在者は、その現実化の条件として、他の存在者、系列、環境をもつと考えられますが(このあたりの記述は、ずいぶん前に書いたものであるので、少々荒いところがあります)、この条件は、当の存在者に予め含まれておらず、従って、その条件を自ら持たない限りで、この可能な存在者はただ己の内容によってのみ、世界の外部に離散しているのです。己の内容によってのみ存在する、とは、あらゆる他者と関係を持っていないということでありつつ、しかも内容をもつのであるから、最初の方で言及した無の点ではありません。有の点という言い方も出来るでしょう。しかも、です。なんとこの可能な存在者は、他者をもたないにもかかわらず、差異を持つ、と、当面は主張されます。差異とは、関係によって生じる、ということは理解できることです。不可識別者同一の原理に従うなら、互いに差異のないものは同一である、ということですが、そしてそれは、差異がそこで成立する場とか関係、世界といったものを前提するのですが、ここでは、差異があるのにも関わらず、彼らはその差異ある己の内容によって、関係を一切欠いたまま存在しているのです。関係や世界、及びそれを前提した不可識別者同一の原理が適用されないところで、己の内容の差異の根拠、理由をもたない、つまり絶対の差異をもつこのような有り方こそが、可能な存在者といわれるものです。つまりそれは、ネットワークを一切もたないまま、ネットワークによる機能化だとかそういうシステム論的な枠組みから外れた存在者なのです、さしあたっては。

そして、これらの可能な存在者は、どのようにして、従って何を条件として現実化するかは、予め決まっておらず、従ってその現実化の条件は、後から、アポステリオリに、経験的に定まります。

それは、予めー在る存在者であり、内容が完全に決定されていて、ただその現実化の条件だけを欠く。

なぜ可能な存在者、という概念が必然的であるのか、そのことについてはお話できませんでした。それは次回以降に回します。

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第一章 「存在と無」~『純粋同一性』と永遠生成の閉域 2

さて、前回はほとんどお話できなかった、「純粋同一性」の概念についてお話しようと思います。このお話は長くなることが予想されますが、本当にゆっくりと、簡明に語ることを心がけます。

まず、「純粋同一性ってなんぞ?」と聴きたくなると思います。それに一言で答えると、「これから在り得る、またこれまで在り得た、存在者全体の集合」ということになります。つまり、未来に実現される存在者とは、予め世界の外部にストックされている、と。こんなことを言うと、本当に馬鹿みたいに思われるかもしれません。プラトン以下のプラトニズムと言われたり、他方、差異哲学への反動と言われたりするかも知れません。しかし、前回もちょっとだけお話した通り、この純粋同一性の領域なるものは、最終的に、「永遠生成の閉域」及び「時間の全体性」と同一視されることになります。そこまで論じるところまできたところで、初めて、この聴き慣れないタームのトリヴィアル性というか、馬鹿げた性質が取り除かれることを期待します。

とにかくゆっくりいきましょう。まずは、古代ギリシア哲学以来からの、質料と形相と呼ばれるものの検討から始めます。

質料とは、有と無の混合です。つまり、形の恒常的否定でありつつ、かつ有の即時的存在です。即自的存在といったのは、質料の方が経験的な存在だからです。ところで、距離、これを私は無の有化と捉えますが―もまた、有と無の混合と見れると思います。が、それは正確でなく、言葉通り、無を有化したものであって、有の作用化としての有化を、無に作用したものが、いわゆる空間である、と取りあえずはして置きましょう。現代の微分幾何学や位相幾何学、多様体論、またそのさらなる発展については重々承知していますが、お分かりでしょうが文脈が全く異なる、ということで一つご了承ください。

ところで、ここでギリシア的世界観といったものを、仮に次の二つの平面に分けて表現します。形だけがある抽象的形状の平面(イデア界とかつて呼ばれたもの)、質料だけがある平面。ギリシア的世界観においては、イデア界とは恒常不変であり、つまり形といったものも、永遠に変化などしません。

しかし、現代でこういうプリミティブなプラトニズムを本気で主張する人はいないでしょう。というのも、形は生成のなかで生じてくる、というのが、ドゥルーズはもちろん、社会システム理論やその他の領域では一般的な見解だからです。

その場合、形といったものも、それが生成的である限りで、有と無、肯定と否定の交代、あるいは存在―存在の形式つまり一般的規則つまりアルゴリズム、およびそれらの否定として捉えられるでしょう。この有と無の混合たる形態に、無が作用したり、やはり有と無の混合たる質料が充足されたりすることが有り得ますが、それがまた無の有化たる空間において、有の肯定、つまり移動を受ける、といたことが生じます。こうした現象一切を取り仕切るのは、有と無の混合の程度、割合、強度などではなく(そこでは、質料と形式とが、同じ混合から帰結する)、どこまでも原理をすり抜ける、原理の組み合わせによるその説明を逸脱する、絶対的個性の原理、つまり、存在するもの、また存在しうるあらゆるものの個性、実存がそこに予め包括されている、理念的このもの性が、考えられると思います。こうしたことを主張したのは、もちろん私が初めてなどというはずもなく、ドゥンス・スコトゥスが既に「このもの性」という用語で形相と質料からなる見方を超えた見方を提示していましたし、また我が国においても、西谷啓治は、空の場においてこそ、ものが「それぞれの自体的な有り方のうちに現成する」、と説いていました。

以上のことから、存在するとは、つまり「そのかたちである」とは、一切の条件に先立つこのもの性(これは実存性という別個の原理を要請します)とは別の条件として、有と無という二つの運動の原理によって説明され得ます。その際、同じ有と無の混合という条件によって、質料と形式という背反するものが同時に生じます(二元論の根拠)。つまり有と無という二元論が、質料と形式という二元論に先行する、ということです。

今回はここまでにして、次回からは、要するにこの「かたち」つまり「形態」こそが純粋同一性である、という話をします。

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