スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

第一章 「存在と無」~『純粋同一性』と永遠生成の閉域 1

前回の最後でお話したことで、ステレオタイプについての記述は十分だと判断したので、今回からは、しばらく私が『純粋同一性』と名付けた概念について語ります。この概念は、私の時間論にも深く関わってきます(時間論については別ブログのこの記事からを参照)。なぜなら、最終的に、「純粋同一性とは、永遠生成の閉域と同一であり、さらにまた時間の全体性と同一である」ということが帰結されるからです。

ところで、本題に入っていく前に、私自身の立場が、西洋の現代哲学の中でどういった位置づけにあるであろうか、という見通しをはっきりさせておくべきときが来た、思います。

以前にも言及しましたが、私の立場は、徹底した「外部主義」であり、「超越を肯定する並行論」であり、そのことで多元論的ではあるが、京都学派の即非の論理を多用することで「多即一」の立場であり、また同じく京都学派から「場の論理」を受け継いでおり、場が西洋的パースペクティビズムに対立する、という思考から「反遠近法主義」であり、それにも拘らず明らかな「相対主義」でありつつ、相対主義が必ず陥るパラドックスについては、「無の点」という「無の外在性(即内在性)」及び場所の論理、自覚によってそれを回避します。

また、ポストモダン後にあって実存を重んずる「ポスト実存哲学」であり、ドゥルーズ由来の「生成の哲学」でありつつ、楽観的な発展論に疑問を差し挟み、非宗教的な「終末論」であることで、真の「個人主義」を実現可能と考え、同時に「種の意味の否定」、それどころか「種の実在の否定」を主張します。また同時に、古くはショーペンハウエルからベルグソン、ドゥルーズにまで受け継がれる、生命的なものを根本におく態度を、神秘主義的として片付けます。それは生命の神秘性を剥ぎ取るのに何ら貢献しないからです。そして俯瞰でなく「自覚」の哲学であり、真に具体的なるもの(すなわち現(Da)及び実存者)がいかに可能か、という「超越論的実存主義」(これはあまりうまい言い方でないかも知れないが)です。そして、これまでの記事から明らかなように、「無の哲学」であり、西洋的な包摂、及び一般化志向に反対します。その代り、20世紀の哲学の潮流に反し、実体的なものをある意味で肯定し、それとは絶対に超越的な「作用」にこそ、非存在的で、無に固有のはたらきを見ます。

私の哲学の、リアリティーの全てをそこに負っているものとは、3.11の大地震です。それは記事の初めの方にも書いた通りです。
そして近頃ようやく日本でも浸透してきたらしい思弁的実在論には、「偶然性の肯定」という立場に、共通するものを見ます(最もドゥルーズやバディウにおいて既に偶然性は存在論的に肯定されていたのだが)。

思弁的実在論、と呼ばれるものは、私には、古代ギリシアのポリスにおいて、労働を奴隷に押し付けたことで得られた自由な知識人が、アゴラにおいて交わす、融通無垢なふわふわとした思弁論、というように映ります。なぜなら、それは時代に対して責任を負っていないからです。なぜこの時代に、この哲学が主張されねばならないか、ということを、その体系内部で説明できているのかが、疑問だからです。言い換えれば、リアリティーがない、思弁的な遊戯に思えるからです。実存主義や、構造主義、ポスト構造主義は、そうではなかった。それに固有のリアリティーがあり、時代に対して責任を負っていた。

まあこれに関連しては、目下あまりに情報に乏しく、全体像なるものがそもそも描けるのかどうかすら不明ですので、予断は差し控えましょう。再度繰り返すと、私の哲学がそれに依っているリアリティーとは、「歴史の終焉」であり、しかも外部から出来事的、偶然的に到来する、人類の死です(同じような発想を、レイ・ブラシエという哲学者がしており、私は彼の主著を取り寄せている最中です。しかし彼は、残念なことに、いわゆる素人哲学に否定的なようです。しかし真のリアリティーとは、アカデミズムの外に在るものではないでしょうか。ともあれ、ここのブログでも、今後彼の哲学を訳しつつ紹介できれば、と思っております)。

そして、「何が実在であるか」についての、分析哲学の長い伝統は、無意味なものとして映ります。なぜなら、実在とは物質であるか心的なものであるか、という議論については、あくまで「私の立場からは」既にこの一つ前の記事で解決済だからです(それは半実在論や非法則的一元論、内在的実在論、自然主義、自然な実在論等々、を否定することではない)。

本当は以上のことを、もっと早く書いておくべきだったとは思うのですが、私自身の立場が固まってきて、現在主流の大陸哲学に対しても分析哲学に対しても独自な位置にいる、という自覚が固まってきたので、この段階で書いておくことにしました。

純粋同一性のお話については、次回に譲ります。

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へ



スポンサーサイト

第一章 「存在と無」~幾何学の問題―内部高次元と貫入の論理7

前回までで、貫入そのものについては大体お話しました。それには、多世界性ということが前提されていました。一つの世界、領域は、1,いかなる存在者を許容するか(可能な存在者の規定)、2、存在者がそこで可能な形式とはどのようなものか(空間の規定)、3、存在者間に要請されるルールとは何か(固有の法則の規定)、以上三つの条件によって限定される、と述べました。この理解は暫定的なものであり、今後改正される可能性は大いにありますが、このように諸領域を互いに外部的にすることによって、例えば、心について述べることは心という領域の基本存在者とそれらが存在する形式、及び法について語ることであり、物理的なジャーゴンは一切記述の中に入ってはならないのであって、それはしかも物理を否定するということではない、と主張できるのです。当然逆も言えます。物理的世界の記述は、観念性の入る余地のないものであって、だから、時折、法則とは帰納からなる一般性に過ぎない、といったことが主張されますが(カルナップとポパーの対決を念頭に置いています)、法則が蓋然的であるのは、法則が経験的なものであるからです。当の経験をする存在者(主体)たる人間、といったものは物理世界には存在せず、ただ肉体的、物質的な身体があるのみなので、法則は完全に一義的に、従って世界内在的に決定されています。前回はそこのところが少し混乱していました。すみません。

しかし、人間なるものは、心という領域と、身体という物理的領域というパラレルな秩序の総合である、のですらなく(それは神という媒介を人間的実存に置き換えただけのスピノザ主義、並行論でしょうが)、人間なるものは存在しない、とも言えます。その存在しないもの、つまり本当は無の点(の対)なのですが―、その「人間」なるものの本質が、やれ物質的だ、やれ心的だ、と争っている場が、まさに物質的な思考のイマージュを根本にもつ諸々の「主体(=視点)」と、観念論的な思考のイマージュをもつ諸々の主体(視点)とが、出会う、この経験的な場であり、それは物質的イマージュと観念的イマージュとが互いに貫入している、そのまさに貫入面である、といえます。

このことを一般化し、対立が生じているのは、常に相反する立場=視点をもつ経験的主体が、その表面に張り付いている、それらの立場同士のの貫入面である、とすれば、当然思考のイマージュ=視点の数だけ、それらがそこに立脚する領域における実在に対して責任を取るべき領域(この実在に対して負う責任という概念は、パトナムから得ました)が、離散しているのです。なのですが、しかし同時に、もし、ある大きな問題といったものが、そこで諸々の立場が争い、己の視点に固執し、しかもその問題が根本的であればあるほど、対立や討論によってはその問題が解消できない、そういった理念的な問題があるとすれば、まさにそここそが、諸領域に立脚する諸々の視点・思想がそこで貫入していることによって、少なくとも別の思想・視点との公共的討議の場を貫入面として可能にしているのです。理念的な問題、問題である限りの問題が、諸々の立場を寄せ集める、というと少しドゥルーズ的でしょうか。

一つの現象について、様々な異なる解釈が可能であるという事実が、我々が、ただ一つの世界に内在することができず、常に貫入面に存在することを示しています。つまり、経験とは、ある問題について、様々な領域が貫入しているその貫入面に存在する、ということです。極端に言えば、物理的世界と心的世界は、経験という諸領域の交錯から、それぞれが独立した領域であるために(つまり貫入した先で己の純粋な唯一性を得るために)、貫入しているのですが、その経験の場=貫入面での存在者として唯一可能なのが、人間という存在者です。ええ、先ほどは人間という存在者を否定しましたが、ここで新たに導入しようとしている人間概念は、以前にもお話した無の点の対です。常に抽象的な他者を持っている、というのが、「人間的な存在者」の必要条件だとするなら、我々は物理的な領域・心理的な領域の、どちらの秩序の存在者をも対象とできる構造をもっている、ということになります。

ああまたステレオタイプについて語ることが出来ませんでした。ですが、大体はお分かりでしょう。ステレオタイプとは、専門性を欠いた、経験世界についての最も緩い体系的認識です。以前、「リゾームこそが、世界に存在する思考者全体の思想が、そこで表現された場である」、といいましたが、このリゾームの表面を覆い尽くすセリーの交錯こそが、ステレオタイプ体系の交錯であり、
一つ一つのステレオタイプ体系は、極めて緩く閉じていますが、それは容易に他のステレオタイプ体系に移行しうるので、結果としてあらゆる思考者の思想がそこで表現される場とは、リゾームという非体系的な表現に還元されるのです。

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へ

第一章 「存在と無」~幾何学の問題―内部高次元と貫入の論理6

前回は、世界の相対性、離散性を論じました。

諸々の世界は、そのパラメータの変化だけで己に固有の法則を維持可能な場合には、アクチュルであると認められます。
つまり独立した領域、自性をもつ領域として認められます。このことをもう少し精緻に述べます。

各領域固有のルールは、どのように形成されるか。それは世界の差異化に伴って自然形成されるのか、それとも法を生成する領域、立法の領域が、別に、諸世界に対して超越的に存在するのか。

法とはまず、その領域においていかなる存在者が存在可能かを示します。つまり、存在者とは本来内容ないもの(空)ですが、その具体的内容を決定します。それはその領域内部ででしょうか?外部ででしょうか?そもそも法則とは、存在者に内在的なのか、外在的なのか。外部主義的に、後者であるとしましょう。それは単なる規約ではなく、そもそも存在者が空である、ということにしっかり基づいています。それで、存在者、固有の空間、法則の三つが、ある領域であることの、必要条件です。

また、存在者を構成する実質が、世界内在的なのか外在的なのかですが、ケノンの裏側の開ー空間(これはずっと後に論じます)が生成する実質が、全く中性的だということを利用するならば、実質の規定は世界内在的と言えるでしょう。例えば自然世界ならば、微小な粒子レベルでの法則によって、自然世界固有の存在者つまり物体の貫入不可能性が帰結するでしょう。つまり上で述べたことと合わせれば、存在者を構成する微小部分の性質によって、法則が決定され、それによって、可能な存在者が決定されるのですが、微小粒子の規定は世界内在的です。しかし法は世界の外部で、既に存在者を決定していました。決定された存在者は、既にそれが持ちうる、というよりそれから構成されうる、粒子を割り当てられています(指示していると言ってもよい)。ここの、厳密な循環ではないにしても、リニアな思考では解しにくい事態は、ある領域の条件といったものを、ただパラレルに並べることで満足させます。

また延長という性質は、仮に、実質の総和というかたちで自然世界固有のものだ定義するとしたら、他の領域でも延長という概念があるかは、決定されません。

例えば他の領域では、延長とは他の存在者を可能にする場として捉えられると思いますが、それは物質世界では地球の大地に当たるようなものですが、大地は既に科学的には相対化されている上、何を可能にしているのか、という事実が重要なのであって、その大きさを計測できるようなものではないのです。

空間や関係といった概念は、その表現としては、諸世界の十分条件として、存在者と同じレベルに現れますが、本当は、空間(や関係)は、いかなる存在者がそこで可能なのか、といった存在者の存在の一般的条件、法を定めるものである限りで、本来的には、存在者から超越した上位の審級です。つまり、空間は、存在者の規定を表現し、定めるものです。
存在者を多義的に条件付けるなら、それは何かしら意味的な領域でしょう。(←この部分は、現在より一般化されました。すなわちある現象なり存在者なりが、2つ以上の規定を持ちうるならば、それは複雑性をもつ、というシステム論によって。しかし、存在者が複雑性を持つのは、そのものに互いに異なる規定を行う体系が交錯し合う、貫入面においてなのです。また、意味が一義的でないのは、パースペクティズムに依りますが、視点の差異自体は、世界の複数性というレベルではなく、前回に触れたステレオタイプ体系の交錯といったレベルで生じます。ですので、視点の差異と複数性による物質に対する理解の差異も、そのレベルで生じます。なお物質に対してパースペクティズムが成立するということは、物質即現象を意味するでしょう)。一義的に条件付けるなら自然世界でしょう(物質にはそれ自体に意味はない)。

偶然的に条件付けるなら、それはより超越論的な開ー空間であるでしょう(ドゥルーズやバディウがそれについて争った、この「開空間」という概念の独自の解釈についても、ずっと後で論じます)。

我々は事実として、そこである現象の解釈が両立しない、二つの世界の貫入面に存在してます。それは必然的なのか。意味領域における「主体」(主観ではない)でなく、物理世界における存在者でない、つまり二つの秩序が交錯する場としての、貫入面においてしか、事実、思考し、対立する、存在者という形式を持てず、私という無の点に対して現前しているもう一つの無の点、つまり抽象他者、と私という無の点の対は、その他者が意味領域の存在者でも物理的対象でもある限りで、貫入面に配分される必要条件であるといえます。

これから述べることは、ややナイーブですが、貫入についての直観的な理解を与えるでしょう。

諸領域は、相対的で離散的だが、ここで各領域を存在者とすると、己と同じ権利を有する他の秩序という他者がいるのを嫌うのである。しかし、一度貫入してしまえば、貫入面という永遠の抗争の場を人間に委ねる他は、自ら絶対的となることができる。諸領域は、理念、つまり目的を持つがゆえに、常なる進歩を各々志向するのであるが、貫入先とは、安住の地、閉域であり、もはや目的も生成ももたない、静的な、遺棄された、それは根底であり、上層の貫入面での抗争を支える、下部構造でありつつ、理念から解放され、自由に掘り進み、いずれは自らの貫入面を切断し、唯一の意味となり、その限りで、明かされるべき何ものも持たない、自らからの出発、となるのではないか。そこは純粋に、己(その領域の存在者)についての、己の対象についての言及だけの言説空間となる。他者を失い孤立した領域は、己の存在物を一義的に理解できるが(観念論、物理主義)、まさに存在の基体が、本質的に物質的かつ観念的である存在者にとっては、貫入面にしか己が措定され得ないがゆえに、厳密に言って、領域固有の存在者のみが在り、本質的に身体的/精神的である我々は、貫入先に存在することはできない。ただ実質を持たない存在を生産し、従ってその作用域が、あらゆる領域の実質的条件に免疫をもつ想像力だけが、基体を貫入面に置いたまま、貫入先で、受動的に感覚し、能動的に対象に作用する。

またまた、ステレオタイプと貫入について論じるのを先延ばしにしてしまいました。
ですが、貫入についての重要な部分はほとんど述べました。

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へ



検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。