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第一章 「存在と無」~幾何学の問題―内部高次元と貫入の論理5

さて、今回も貫入の論理についての話ですが、ステレオタイプとの関連についてお話する、と予告していました。
しかし、そのためには、まず、世界の外部性、多世界性を語らねばなりません。

貫入とは、まず、物理的にはあり得ません。つまり禁止されているのです。逆に言えば、物質的世界以外の世界、領域においては、個別に絶対的・相対的法則、規則、ルールが存在するでしょうが、貫入は特別禁じられません。なぜなら、その領域における基礎存在者が、物質ではないからです。観念は、観念と相互貫入することがあり得ます。

最終的な現実とは、物質性が支配し、貫入は禁じられます。否、最終的な物質の支配などありません。それはルールを定められた一つの世界でしかないのです。

さてまた、自然世界内部では、その基礎存在者が物質であるがゆえに貫入は予め禁止されていますが、この自然世界そのもの、この領域そのものは、貫入は禁止されません。自然世界や観念世界を超越した、領域を可能にする領域は、最も緩い規則を持った、メタ的な場です。むしろ規則などなく、ただ、そこにおいて諸々の特異性を持った世界、領域が、その内部に散らばっているのを可能にしているだけです。

超越的な秩序、無意識等は、その本性において物質以前だから(物質の秩序と並行する別の秩序だから)、パラレルに離散する一方で、互いに貫入が可能です。それは、互いを写像で対応させる必要をなくします。

上にも述べましたが、空間において貫入が生じることから、空間は物質の次元でなくメタ的次元であることが明らかになります。空間とは、諸世界に対して一般的な概念です。

また、貫入とは、単に2つの集合の共通部分ではないのか、と考える方もおられましょう。その際、集合というとあまりに具体性を欠いているので、述語論理における、2つの述語の共通部分、つまり内包(つまり性質)の連言ではないのか。

貫入が、単に2つの集合の共通部分と異なるのは、まず集合論においては、共通部分の成員が、その2つの集合がそれぞれもつ性質を2つとも持っている、ということであり、この共通部分はまた集合なのである、ということです。
貫入とは、予め断ったように、混合とか混ざることといったこととは違います。貫入部分は、双方の項の性質を、貫入によって失わないのです。また双方は、貫入によっては、それがもつ実存性をいささかも失わないので、ある共通空間のある領域にて、2つの存在が、その空間の次元を上げることなく可能です。

貫入は、複数の存在が、同時に同じ場所にある、という物質的矛盾を、次元を上げることで解決するのではない、といったような、非物質的な事態なのです。

貫入は、それが生じている場所で局所的に次元が上がっていて、それが両者の独立性、並行性を可能にしながら、貫入面にて相互作用を可能にする、といったものでしょうか。すなわち、貫入の論理は、宇宙において様々に次元が異なった領域が存在する、という次元の非物質性、非一義性なのでしょうか。

例えば非物質的な、夢における人物や世界の貫入は、それを対象とした一つの超越自我が、あるいは貫入部に存在する内在自我が、どういう経験をすることなのでしょうか。

何度も強調しますが、貫入のメタ的秩序において、次元数の増加でもって貫入を物質の論理で解決するということは、そのまま貫入の物理的解決に過ぎないのです。

しかし私は、のちに考えを変えました。次元数の増加は、なんら物理的解決ではない。なぜなら、空間は物質的秩序に固有なものではない、つまり物理的世界の存在者たる物質に内在していないからです。

空間性ということが、あらゆる領域において認められる、というより領域の条件と領域の差異の条件となっているならば、様々な領域が、貫入によって、貫入先で己の秩序を維持しつつ、貫入面で、秩序の交錯が起こっている、ということです。しかもさらに言えば、次元数の増加による物理的解決など必要ありません。なぜなら、領域に固有の空間性は互いに異なるため、次元そのものが各々異質であり、それを上げることで各々の領域の存在者が同時存在可能になるような、さらに一般的な空間を要請する必要がないからです。一般的空間については、上にも述べましたが、アプリオリに各領域を可能にする、最も緩い空間性であって、それが禁止するものは何もありません、それはただ、包んでいるだけで、位置や次元、ルールといった物理的で抽象的な規定など一切持ちません。

達摩の空(くう)、法の空。矛盾は、貫入面で起こっているのと同時に、貫入そのものが物理的には矛盾であったのですが、寛大な空は、矛盾をも包み、あらゆる領域を包みつつ、自性を持たず、それらの好きなままにさせているのです。

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第一章 「存在と無」~幾何学の問題―内部高次元と貫入の論理4

貫入の論理と、ステレオタイプの関係について考えます。

リゾームという単語は、甚だドゥルーズ=ガタリ的ですが、私はこの概念を、次のように使います。
すなわち、リゾームこそが、世界に存在する思考者全体の思想が、そこで表現された場である、と。
すなわち、リゾームとは、その共通部分が、常識(コモン・センス)であり、共通でない部分が、専門的領域であり、
またリゾームの非体系性は、その内部で容易に矛盾する命題が同時に生じ、よってそれが対立する、という事態を可能にします。

あらゆる領域、世界、イデオロギーに関する思想表明の絡み合う場としてのリゾームが、唯一の世界の潜在的で共同的な表象として、蠢いています。この、万人が潜在性としてそこに理知的に参加している共通リゾームと、個々の存在者のステレオタイプ(共通観念)の両立とは、どのようなものでしょうか。

リゾームが思想の絡み合う場だというなら、意識はリゾームという潜在性、あるいはリゾームの局所的問題圏という潜在性を媒介して自然世界の存在者と出会うはずです。すなわち、ある思考、思考のイマージュ、思考の様式、を媒介して初めて、自然世界(クワインの言う内包を排した世界)の存在者(要するに物理的な物体)を対象とすることが出来ます。しかしながら、この存在者は、当然ある思考の枠組みによって出会われることが明らかになったのですから、その純粋な姿でなく、意味、現象という形式を取ります。

普通に生活していて、あらゆるものをステレオタイプで覆っており、従って根源他者を忘却し、形態直観(要するに意味以前のものそのもの、特異的でステレオタイプに覆い隠されている存在者を直視すること)をすることのない人は、認識を成り立たせるものとしてのリゾームという超越論的領域においても、あらゆる問題圏をステレオタイプで覆い、ステレオタイプ同士の接続という、「常識」を媒介して、自然世界内を身体を媒介して運動しています。

リゾームというのも、それ自身ではまた具体的規定を欠いた抽象的なシステムですが(リゾームとはもはやシステムの一カテゴリー、ないし一形態と捉えます)、そのプリミティブな形式は、問題圏、すなわち無の点の離散と、その接続による関連化と差異化です。この原初的レベルでは、問題そのものはいかなる規定にも出会うことはありません。規定はむしろ、リゾームそのものがそれの経験の条件となるような、具体的な世界からやってきます。しかし、具体性は、抽象的なシステムのリゾームとは永遠に相互外在的であり、従って単に対応するだけです。

自然世界、及び観念世界の、ラジカルな概念的分割が、アポステリオリに各未規定な問題に対応します。この分割は経験的なものだから、当然最終的な問題の布置を決定するものではありません。リゾームは動的で局所的に常に新しい。こうして局所的に、それぞれ他とは異なった思考の枠組みが形成されます。

ここまでで、リゾームという概念の捉えなおしを図りましたが、それによってステレオタイプとの関連性は示唆されたものの、未だ貫入の論理との関連は語られていません。次回は、リゾームという潜在的な場所と、貫入の論理との関係を、はっきりと規定します。

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第一章 「存在と無」~幾何学の問題―内部高次元と貫入の論理3

今回は、貫入の論理についてお話します。私が貫入の論理を電撃的に考え付いたのは、イギリスの画家、フランシス・ベーコン(哲学者じゃない方です)の個展に行った時のことです。そこでは、具体的な形態が、相互に複雑に入り込んでいたのです。

無でも有でもない、光は通すが身体は通さぬ透明なものがあります。ガラスです。しかしガラスは物体です。
物体と物体とが、互いに入り込むなどということは、物理的には在り得ません。そこに穴のようなものがない限り。
また一方に穴のある固体に、液体が流れ込む、と言ったことでない限り。しかもそれは、私の考える貫入ではありません。

つまり、有の有への貫入です。柔らかい有は、押されたら凹むが、貫入とは、どこにも無がないのに、有の否定です。
貫入と、初めからある穴に通すこととの違いに気を付けましょう。同一性を連続体に解体してしまわない、貫入。次元を上げることで解消されない、限りある次元での貫入。

また形態の事実上の解体である(ベルグソン的な)相互浸透でもなく、形態を保ったまま、入り込むこと。
それは一義的空間の否定であるでしょう。ある系に他の系が貫入しており、無を媒介するのですらないこと。
貫入の論理においては、例え一瞬であるにしろ、たった一つの空間が言えない、ある主体の属する部分が別の部分に入り込んでいる、という話でなく、同一なる身体が伸ばされ、片端が別の己の部分に貫入することで、異物となるような、事態です。
私の左手が、もし、私の右手に入りこんだら、左手にとって右手は異物であり、逆も同様です。

そもそも貫入を禁止する有の法則とは、それを認めてしまうと、貫入する方もされる方も、もはやそれが最初に言われていた意味で、「在る」とは言われなくなるからです。それは、貫入した途端、どちらも無くなるか、どちらも無くならないなら、二重の空間が生ずる、ということです(貫入が生じていない外部では、空間の同一性が言えても)。

貫入とは、接触すると、実質はなんら交わらないのであるから、接触面を境に、全く相手が消え去る、別の空間へと離別する、ただ表面で接触したことが唯一の出会いであって、内容面・実質面の交流は一切ありません。貫入においては、そもそも同一の世界に属していたものが、全く別の2つの世界に離別することであり、単なる並行といったものではないです。相互貫入の場合、それが深くなるにつれ、接触面は深くなるが、一方的なそれの場合は、貫入先に対して己の深さを晒す。まさに接触面において、またその上でのみ、実質の交流が起こっている、ということです。

闇の景色、星空、夜景に対し、昼の景色は光によって生ずる陰影を含む。

今回は貫入の論理について、少しお話しました。実は、この貫入の論理によって、パトナムの意味論的概念である「ステレオタイプ」の意味が、明らかになります。すなわち、常識とは何か、専門とは何か、そして貫入面における対立とは何か。

次回も引き続き貫入の論理についてお話します。

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第一章 「存在と無」~幾何学の問題―内部高次元と貫入の論理2

観念論者と実在論者の対決にはとうに決着がつき、物理主義者だけが真理に近い立場にある、という風潮はもはや
一般人にも深く浸透しています。
私としては、先に結論を申し上げると、物理主義はなるほど結構であり、多くの問題がそれにより解決できるだろうが、
しかし物理主義というひとつの態度を取ることで、他の立場からは簡単に説明できるようなことが、時折非常に多くの
媒介、紆余曲折・苦労を経て、やっと達成されるといった自体が生じていることに、単純に経済的な疑問を感じているのです。
(例えばクワインの自然主義における、「刺激意味」なるものを基礎にした、冗長な経験の理論)。

さらにラジカルには、物理学とは、そもそもギリシア哲学を起源としているので、どうしても西洋的なものということで相対化されます。まあそれはおいおい詳しく論じるとして。

ドゥルーズのベルグソン読解の続きです。
生命という非外延的イマージュと、物という外延的イマージュが、混合して経験は成立している、というのが、「ベルグソンの哲学」で語られています。

しかし、混合とは何か。物の方のイマージュは簡単です。要するに、論理学でいうクラスであり、そのメンバーとして項があります。
このクラスは抽象的であり、内包的意味をもたず、項も無内容としましょう。

しかし生命的イマージュの方はそう簡単には言えません。項として、何を取るか。少なくとも、それはベルグソンが優遇したい生命的なものであるのだから、抽象的なクラスなどでなく、生きた集合です。つまり、その集合の内容が一瞬一瞬局所的に更新されるので、各項、及びその関係の意味もまた、一瞬一瞬変わっていきます。70年代以降盛んになったオートポイエーシス理論に近いですね。そもそもベルグソンの哲学自体が、オートポイエーシスの原始的な姿ですが。

さて、物体のイマージュと、生命的なイマージュが混合する、とは具体的にはいかなる事態なのでしょうか。
そしてそれが経験の条件だというのなら、我々存在者はその混合している現場で同一性を保たねばならないのです。

同一性を維持しないと、それらは生命と空間との混じり合いにおいて、緒イマージュの交差において、(常に関係とその意味が変化する)生命的粒子と(内容をまったく持たない)空間的粒子とが混じり合って内部的多様性をなして、まさにそれが現実に現象している只中で(超幾何学的形態の断面において)、私という混合から成り立つという存在者は、内部的に解体されてしまうでしょうか?

存在者は、形態をもつ、としましょう。この形態は、もちろん物質的な形ではありません。形態(ゲシュタルト)についてはもっと後に詳しく論じます。

ところで、その現存在を定義する形態は、ある断面の層を含む形態をなしており、その形態がもつ断面において、生命的粒子と空間的粒子が内部多様性をなしてなにが悪いのか?つまり、現存在という形態は、多様な断面の層を含み持っており、その横断であり、そのうちで、個々の断面がもつそれぞれ異なった粒子が、運動している、として、存在者とはそういうものとして規定されるのではないか。

ある存在論的形態としての現存在は、もしそれを純粋に抽象的に見るならば、従って各イマージュに分析するのならば、つまり生命、純粋記憶として見るのならば、幾何学的形態をなしているはずであり、その断面は、様々な種類の粒子による多様性をなしている、と考えられます。
この幾何学的形態の、最も内奥こそ、全ての種類の粒子による多様性でありかつ、まだ規定されていない抽象的存在者の重複の場であるのです。逆にベルグソン的な逆円錐とは、先端に行くにつれ、この抽象的存在者は、どんどん規定・限定されていく、と考えられます。
その先端、極限が、経験的な現在です。

規定されていない存在者。過去の記事では、無の点でそれを置き換えました。ベルグソンの混合とは、このように内部高次元と捉え直したうえでもう少し精密化すると、複数の異質のイマージュからなり、特に物質と生命が重要ですが、後者を生命ということで神秘化してしまうのでなく、多様な粒子の常時可変的な関係、と規定できるでしょう。
また混合ということも、その漠然としたイメージでなく、内部高次元という超幾何学でもって、多少は規定されました。
しかしここがベルグソンの限界です。

混合ではなく、その一般化としての貫入。次回は、混合よりも遥かに包括的な、貫入の論理についてお話します。
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