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第一章 「存在と無」~ドゥルーズの出来事の理論と西田的絶対無4、無と問題系、『穴』

無とは、西田によれば、媒介がないこと、間がないこと、即連結することであるから、それはかえってあらゆるものを繋ぎ止めるのです。あらゆる接続を連続性のみに負わせるのでなく、無に旦保させる。

逆に、有とは何か。新しさのない一般的世界は、「ただ在る」にまで性質を奪い去られている。だから、それはただ在るだけであり、それ以上の性格をもたない一般的な有であるのです。

 部屋は、内部を囲いこんでいるがゆえに、部屋と呼ばれるが、部屋の内部の穴は、それが存在を媒介なしに通過させるからこそ、無なのです。部屋は、部屋という存在を媒介して、つまり部屋が内部を含む、という能動です。

無とはまた、問題系内部の穴をも意味します。

いかに抽象的であっても項であることに変わりない項としての存在が、受動し、能動するだけでなく、存在の抽象的穴があり、それは抽象を、媒介なしに、存在の只中で通過させるのです。私にとっては大きすぎる出来事、私によって受け止められ、私の脳に保存されるだけでなく、私の存在を通り抜け、それがそれにとっての出来事であるようなスケールの抽象的存在者がまるで実在するかのように、個人的存在を通り抜け続ける。ある問題系によって受け止められながらも、当の出来事がその問題にとって大きすぎるという理由からでなく、その問題系の存在論的穴によって、媒介なしに(概念や共通性、類似性を介してでなく、むしろ一切共通性を前提しない、全く無契機無理由に)別の問題系へと、通り抜ける。それは、問題系同士の接続より先です。

ある問題系内部の無とは、当の問題系の言語では捉えられない、生産的無=差異であるばかりでなく、当の問題系によっては全く発見されず、気付かれもしない。別の問題系によるその問題系の表象によって初めて暴露される、限界でも欠如でもない。
もし、その問題系における欠如ならば、発見さえされれば充足できるのであるから、欠如とは生産的無であるでしょう。
無は、表象を介してしか発見されないがしかし、当の問題系内部にあるときは、常に接しているのであり、むしろこの無、虚しさが、当の問題系を表象にまで追いやってしまうのです。

ある系における穴、あらゆる他の系へと無媒介的に移行させる穴がある、ということです。また、認識平面、あらゆる認識は、対象論理であろうと主体論理であろうと、認識となった途端、対象を逃す。

それに対して、ドゥルーズ的な、混合あるいは差異化の理論は、存在そのものが減じる・増加する。ドゥルーズにとって存在とは特異点に対応するシステム上のものに過ぎないから、それでも良かったのです。
しかし、それにしても、特異点は徒に増えてはいけないはずです。ドゥルーズは現実的、歴史的、因果的な時間は既にシステムに固有であるから、その外の自由な超越論的時間(第三総合)が問題だったのです。

それに対し、私はリアルな過去を重視、リアルなリニア時間を肯定するが、その上位のシステムを認める、n次元メタの形而上学です。しかしそれでは、nプラス1の背進にならないか?

ドゥルーズは同質なものの背進(第三総合のセリー)は認めても、レベルの異質なものの背進(条件、そのさらに条件)は認めず、むしろそこでは循環が問題になる、という議論をしていました。

そこで次に語るのは、「内部高次元」の発想、特権的な系はなく、複数の系の相互包摂、自由な現存在、という発想です。
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第一章 「存在と無」~ドゥルーズの出来事の理論と西田的絶対無3。演算としての無の作用

これから、前回でも少し触れた、無の作用についてお話ししましょう。

田邊元的な言い方をするなら、有と無は、対立を媒介することで即応します。対立は繋辞であり、いわば生成の論理における演算項です。ここで、否定作用と否定内容の区別をしましょう。無が実体なき作用だとするなら、否定作用は内容として有をもてば、それで否定は成立しています。しかしこの成立した否定は全く静的なものであり、これだけでは何も生まないのです。否定作用自体は当然内容を持たないから、有に作用して、「有がー無いこと」としての、虚無の場を、表象ないし予想するだけです。
しかし注意したいのは、この表象された「有が―無いこと」としての虚無の場の位相は、前回述べた根源的なケノンとは違う、ということです。あくまで表象は、一次元下のレベルにあります。

しかし、こうも考えられます。有を否定したとき無が生まれるといったごとき有と無の二項関係以前の、演算としての否定を考えます。、小さな否定は有の差異化であり、大きな否定は、その有の対立物を表象する。

この二点を総合しましょう。
「有が―無いこと」という場、空間において、否定された当の有の差異化もしくはその対立物が表象される。
有がー無いこと、が、有の周辺に、有の差異を、つまり陰影のごときものを、つまり中心的有から流出したがごとき様相を呈することになります。この差異化は、陰影のあるあらゆる部分で行われ続けるとすれば、有は無限のニュアンスで自己肥大するが、同時に己の内部に陰影を作り、不均等になって、中心であった絶対有は中心から逸れ、むしろ穴と化します。トーラス、ドーナツ化ですね。

それでーあることを否定し、否定の度合いが小さい場合には、別様にーあることを提示・表象し、否定されたものがそれを承認し、己をそれに移すこと。

今回は、無の否定作用を演算として捉えてみました。
そして、次のような形而上学的フィクションで締めくくります。演算それ自体では直接的項を持たないから、演算自体を項として借定し続ける。小さな否定による演算の自己差異化は、あらゆる変化の形式を生み続ける。体系も統一もなしに、変化の形式が互いを変化させ続ける。それは、形式世界であり、あらゆる内容と形式の一致以前にある形式のアプリオリな集合です。

そして、差異とは超越的パラレリズムにおいて何かといえば、差異は己の内に演算をもつ実質である、ということになります。

第一章 「存在と無」~ドゥルーズの出来事の理論と西田的絶対無2

さて、西田においても、無とは、かたちあるものでなく、むしろそれを生み出すものとして、つまり純粋な作用として、積極的に評価されました。この点は私も変わりません。無は、純粋な作用を無限に生産する点なのです。

また、無の性格として、ドゥルーズ的特異点の性格を加えましょう。出来事の本質とは何か。それは、切断です。
文脈の切断、事故です。それまで平穏に続いていた日常への、突然のショック、地震などです。出来事とは、終わらせるものです。
だから、出来事としての無が、文脈に接触すると、文脈を切断します。

以上、無の点はこの二つの性格を持ちます。しかしながら、これでは、無の点が、何か存在の外に外在しているように見えてしまいます。存在の外、とは無ですが、無に無の点がある、とはどういうことでしょう。それは西田が絶対に認めない論理的矛盾ではないでしょうか。

ですから、無の点が離散する空間というのは、厳密に言って、無ではないのです。田辺の言う、有化された無ですらない。それは、虚無です。厳密にいえば、無とは、有に内在するときに、無限に延長を否定するから、有の内部でのみ点であるのだ、とも主張できましょう。しかし、他方で、無の点とは、原初的な自我でした。自我の離散という事態に鑑みて、それは虚無においてすら点の表象をもちます。

虚無、とは、ここでは、空間ではありません。これを説明しましょう。ライプニッツによる、「不可識別者同一の原理」という有名な原理があります。簡単に解説すれば、互いに識別できない2つの個体は、同じものだ、というものです。しかしそれは、同じ空間、同じ世界における話ではないでしょうか。この不可識別者同一の原理を逆手に取ります。同じもの、全く同じものが、互いに何の関係も永遠に持ちえないから、離散している、ということです。無の点は、内容を持ちません。だから、全て同じものです。同じものが、互いに絶対に関係しない場で、数に関して任意だから、自然数個離散している。この場を、ケノンと名付けましょう。それは空間ではなく、要請された虚無であり、現実から遠のいた、現実から超越した場です。

超越的パラレリズムが超越的と言われるのは、ラジカルな経験論でないこと、また、内在性にまったく拘束されないこと、そして、無の点が、それぞれ並行して離散していること、これらからも選ばれた呼称なのです。
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