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第一章 「存在と無」~ドゥルーズの出来事の理論と西田的絶対無1

導入はここまでにして、ここから第一章になります。悩みましたが、やはり他の哲学者を批判的検討するところから始めたほうが、読まれる方も付いてきやすいかな、と。

第一章は存在と無、です。
ドゥルーズは、出来事の哲学者である、ということに私も賛成します。ドゥルーズは、出来事を、「理念的出来事」「シーニュ」「特別な点」「特異点」などと、著作や文脈に応じて使い分けていますが、全て同じものです。それは、思考を強制するものとしてはシーニュであり、主体や個体化に先立つものとしては特異点です。それも、理念的な。最終的には、出来事は唯一である、という一元論に達します。
これに対しバディウが「出来事は複数である」と反論しましたが、ここでは置いておきましょう。

ドゥルーズの過剰な、主体の軽視によって、出来事の理論は大分歪なものになった、というのが私の意見です。主体の生成過程を、ドゥルーズははっきり記述しません。とりあえず、ポストモダンとしては、主体の発生はプロセスのずっと最後のものだ、ということが堅持されています。

しかし、そのポストモダンの事情などどうでもいい私にとって、主体はどうでもいいものではありません。むしろ、現象学や西田哲学のように、それは非常に謎めいた、一生のテーマになり得る対象です。

例えば、自分を反省してみましょう。何か認識のようなものが得られると思います。しかしそれは、自我そのものではありません。
自我は、反省に対しどこまでも逃げていく、そういうものです。つまり、永遠に経験的にはならない、理念なのです。ここまではカントを踏襲します。そして、いくら反省を積み重ねても、永遠に手の届かない大賞ならば、それは「無」です。自らは無であって、有を生産する、西田的な人格です。しかしそれは、出来事でもあります。つまり、無は、有でないから、純粋な作用となるしかないのですが、作用を産出し続ける、有に内在する無である、ということです。

しかし、西田は、なぜ無は超越的でなく、内在的だ、と言ったのでしょう。無は、その底において絶対無というひとつの無である、
という展開は、ドゥルーズの唯一の出来事にも似ていますが、ともかく、無が有に内在するとき、それは延長をとりません。
つまり、延長なき、点です。世界に、無数の人格があるということは、無数の無の点が、離散して内在している、ということです。
西田は、有に内在する無数の無の底に、唯一的な絶対無を見ましたが、私はそれを余計なものだと考えます。また、無は、有に内在する際には幅のない点であるが、そうでないときもあるのだ、ということをも主張します。

今回の記事で言いたかったことのまとめ。特異点=無の点=自我。
私は、現象学や西田の自我や人格を、ドゥルーズの特異点と置き換えることで、現象学からは逃れることに成功し、
むしろドゥルーズ的な非現象学な体系めいたものに到達しました。しかも、それはドゥルーズの超越論的経験論でなく、21世紀の今更、超越を肯定する理論です。
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