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導入:超越的パラレリズムとは何か~サイバーデス

サイバーデス、という倫理観は、究極の個人主義を可能にします。
前回も触れたとおり、究極の個人主義は、楽天的に持続すると思われる種や社会に関してでなく、世界、人類の終わりが、もしこの個人の死と同時に起こるとしたら、という仮定のもと、思考されるのです。

前に、超越的パラレリズムは、血、種を否定する、といいました。
ここから、少し哲学的な話をします。

現代人はどこかで、無意味さに恐怖しています。
無意味さを、結論する構造とは、どういうものでしょうか。
推論を介して、「ゆえに無意味である」、と結論することですが、ここで「無意味である」、というのは、推論でしょうか、それとも印象でしょうか?

「世界は全て因果律に従っている、ゆえにあらゆる行為は無意味だ」という推論は、あらゆる行為に妥当し、それゆえ最もラジカルではあるが、最も具体的なものから剥離した、抽象的な推論です。特にここでは、サルトル的な意味、すなわち対自的が無視されています。

人間は、ともかく内在しているから、内在意味をもつのであり、このどこまでも超越的な推論は、具体的な内在意味から最も剥離している。内在意味とは、ここではいわゆるある系の機能とは違うものです。例えばある有機体の部分は機能をもちますが、この機能とは、系の全体の維持に貢献することをもって、その意味が測られます。ですので、ここで、機能と結果とが異質なものである、というヘンペルの機能分析は、さし当り無関係です。なぜなら、ここでは、全体に貢献することを前提する機能が問題なのではなく、あくまであるシステムに内在している存在者が生産する結果によって測られる絶対的jな意味が問題だからです。ここで念頭に置いているのは、機能ではなく、存在者の行為といってよいでしょう。行為ではあるが、結果によって測られる自由でない行為のことです。

逆に内在意味は、その結果に関して意味をもつのであり、無意味さを推論されるのは、当の結果の連関に対してです。結果を志向しない、自由な創造は、それゆえ、却って内在意味に無意味と非難されても、無意味を推論する者の目から逃れています。

いずれにしろ、無意味の推論者は、当の対象の無意味さを結論するのに、その根拠、無意味の基底、特にそこでは何の恣意的意味もない機械論へと接続するのが仕事の全てです。機械論には、超越的意味がありません、全て機械的な内在性で処理します。

逆に、結果に依存しない真の内在的意味が発生するとは、偶然が作用し、そうではなかった世界が有り得、従ってこの偶然的な実存には意味があり、そうではなかった他の可能性から、敢えてこの世界が選ばれた、とみなすことができるとき、己は己に対しては責任がないが、その超越的選択に、責任があり(偶然に責任がある、つまり責任なし)、また己は、他の可能な己に対してのみ、責任がある、ということではないでしょうか。自分の選択によって実現しなかった可能な自分に対して責任があるのは当然ですが(よってこの自分を延長する、引き受け続けねばならない)、偶然的に実現しなかった己に対して、つまり可能な、従って現実に存在する己に対して、しかし他の自分の実存でなくこの実存を与えられたことに関して、それを認知し、引き受けねばならない、ということです。それは単に、存在の意味を問うことを引き伸ばす通常の存在延長でなく、その都度実存を堪え忍ぶこと、実存の重みを堪えることです。
偶然的な作用、その偶然によって、作用されないものと作用されるものと作用されたものとが分かたれる超越的作用、こそが、作用されたものに、実存、意味を与えるのです。実存とは、超越的意味でなく、内在的意味、すなわち意味と存在との一致です。

ここで、先ほどの血、種の否定が生きてきます。生を受けるとは、因果的にその根拠を親に求め、そのことで親の責任ではあるが、究極的に特異的な実存としては、偶然を根拠とするがゆえに、根拠をもたない、責任を負うべき根拠がない、偶然を恨んだところで、何も認識は得られず、ただ引き受けるしかない。(種的な)必然的系列と、(実存的)偶然的点の、パラレルこそ、まさにこの実存である、ということです。

人類のため、という共通目的、種的目的が、唯一の終焉によって意味を失ったとき、どうやって生きるか。そのヒントの一つが、この真の実存の考え方に含まれています。そしてそれとは別のヒントが、この実存とも関連する、「自由行為」という概念です。
次回は、「自由行為」についてお話しします。
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導入:超越的パラレリズムとは何か~終末論

超越的パラレズムを特徴づける性格の一つに、徹底した「終末論」があります。これは、当然キリスト教的な終末論ではありません。

どういうことか。一つには、3.11大地震の影響もあります。あのとき私は、なぜ地震が東日本を中心としたものに留まり、日本全体、いやアジア全体、地球全体が崩壊しなかったのか、と疑問に思いました。それは、もちろん地質学的には回答できるのでしょうが、しかしながら、人類の「破壊に対する免疫」の余りの脆弱さ、それに加え、破壊の偶然性について思い知らされました。私は、今日外出しても事故死しなかったが、それは偶然ではないか。私の存在から見て偶然であり、それを大きな因果から見て、事故が起きなかったことが必然である、というのは、私に対して外的なものではないか。

これが、出来事の非情さです。私が、ドゥルーズからもっとも多く学んだのは、まさに出来事についての論理であり(デリダもそのようなことを言ってましたね)、偶然についての考え方です。

さて、人類は破壊に対してあまりに免疫がありません。地球というちっぽけな星が崩壊したら、いや、地表が荒廃したら終わりです。人類を、いつか終わるもの、と考えること。太陽系の崩壊か、あるいは核戦争か、エネルギー不足か、地震かは分かりませんが、とにかく楽天的にだらだら持続していくものとしての人類でなく、確実に滅亡するものとしての人類を考えること。

これは、しかしながら、非常にポジティブな側面をも併せ持ちます。究極の個人主義は、楽天的に持続すると思われる種や社会に関してでなく、世界、人類の終わりが、もしこの個人の死と同時に起こるとしたら、という仮定のもと、思考される、ということ。もし、人類が明日滅ぶならば、種をそれ以上存続させよう、といういかなる努力も無意味です。個人個人が、終末に際して、いかに在るか、いかに振る舞うか、が全問題となります。

しかし、その際、紛争地域などで起こっているような、略奪や、性の荒廃が起きないのか。どうせ明日死ぬんなら、せめて今だけでも快楽を貪ろう、という輩が湧いてこないか。

こういった、人類の終末を前提したうえで、個人はいかにあるべきか、集団はいかにあるべきか、について論じる、いわば超越的パラレリズムの下位部門が、「サイバーデス」とも名づけられるべき倫理学です。
なぜこの倫理がサイバーデスと呼ばれるか。それは、確実に機械の方が人類より永く延命するでろうからであり、したがって人類が滅亡してなお、宇宙の至る所で機械が作動している、というSFを念頭に、サイバーパンクに呼応して名付けられたからです。

次回は、このサイバーデスの倫理についてもう少し詳しく書きます。
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