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導入:超越的パラレリズムとは何か~危機

今回は、現代日本が抱える「危機」について書きます。

前世紀、つまり20世紀の前半は、いろいろな意味で、全体性が跋扈した時代でした。
ベルグソンの生命、これは潜在的な全体性でなくしてなんでありましょうか。ニーチェの力への意志という概念がもつ全体主義的性格が、ナチズムに利用されたのは、周知のとおりですが、それは当然、西田幾多郎の絶対無の場所や純粋経験、またハイデガーの存在でもよかったわけです。これらの19世紀末~20世紀初頭にはやった哲学の共通性は、ズバリ、二元論を否定しようとして、その背後に一元的な形而上学的実質をみた、これにつきます。

大戦後、全体主義は、とにかく批判されるようになりました。それは、アドルノであったり、政治的にはアーレントであったりします。ドゥルーズもそうです。ドゥルーズこそは、ベルグソニスムを引きずりながら、潜在的な一性を否定しようとして、深層の分裂病的平面を発見しました。

さて、日本の民主主義が、君主制のごとき性格を持っている、ということはよく指摘されますが、しかし、それは置いていきます。隠れた全体主義、これこそが危機の源です。しかし、この隠れた全体主義は、現代日本になって初めて生じた、という性格のものではありません。むしろ、戦中の日本の、政治的意味での全体主義が薄まって、政治的な対立が弱まって、表面的な危機意識が薄れている現代にあって、初めて露わになってきた、というべきでしょう。

具体的に、この潜在的な全体性とはなにか。言ってしまえば、それはまずは、「血」でありましょう。血縁であったり、種であったり、人種であったりします。血を、つまり民族を、否定したことのある哲学があるでしょうか。血こそは、潜在的な全体性であり、真の個人主義の実現を妨げ、人間をいつまでも縛り付けるものです。

例えば、私は、ある血筋に属していますが、なぜそれに縛られねばならないのでしょう。なぜ、姓といった制度があるのでしょう。それは、明らかに個人の識別のためではありません。
例えばまた、民族は、それはヨーロッパを見れば明らかなように、明らかに国家とは相対的ですが、しかしナショナリズムを煽ります。ナショナリズムは、というよりレイシズムは、人間の根底にあって否定できず、個人の自由な運動を制約しているように見えるのです。
であるから、まずこの血なるものが、本当に哲学的に、存在論的に否定できないものであるかどうか、これを検討する必要があります。

さらになお、潜在的な全体主義批判は続きます。
例えば、「世界」とは、表象でしょうか、実在でしょうか。それは表象であるとは、個人が世界に先立つ、ということです。
それは、世界内存在、というハイデガーの考え方とは真っ向から対立し、むしろドゥルーズとよく符合する考え方でしょう。
私は、そのモデルをとります。
一方、世界が、実在である、とはどういうことでしょうか。その場合、世界と、存在者とは、同じレベルにある、ということを意味するでしょうか。そこでは、世界は存在者の場として機能し(ハイデガー、西田)、そしていつの間にか、世界が存在者に先行し、それを可能にするものへと転倒せられる、という事態が生じないでしょうか。

この、存在者を可能にするもの、を、「存在」と読み替えましょう。世界はまず、存在者と同じレベルとして捉えられるが、それが「存在」と読み替えられ、この「存在」が、表象でも実在でなく、潜在的根拠と化す。こうした事態、この転倒が、潜在的全体主義が生じる、ということなのです。

ですから、私のプログラムは簡単です。「存在」を否定すること。「存在者」の哲学を構築すること。それは、私が、スコトゥス―ドゥルーズの、「存在の一義性」から離反する、まさにそのポイントであったりします。

王や神という倒すべき相手よりさらに深い、産み出された人工的根拠、「存在」。人間はその本性からしてポリス的なのだーという欺瞞。存在の発見、相も変わらず存在者であるような根拠(イデア)でなく、存在者とは本性的に区別される潜在的根拠の誕生こそが、まさに元凶なのです。

ですから、「存在などないー存在者があるのみ」、というわけです。

次の記事では、超越的パラレリズムを特徴づける一つの終末論的性格について書きます。

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導入:超越的パラレリズムとは何か~その歴史的文脈

こんにちは。くれと申します。かつては、上智大学哲学研究所で、ドゥルーズを研究していたこともあります。
さて、ドゥルーズを研究しているうち、次第に私の心はドゥルーズを離れ、新しい形而上学的体系へと収斂していきました。
このブログでは、「超越的パラレリズム」とも名づけられるべきその体系を、平易に記述することを試みます。
今回は、その導入として、超越的パラレリズムがいかにして誕生したのかについての、思想史的背景を述べます。


ドゥルーズが古典化して、久しくなります。日本ではおそらく、浅田が活躍した1980年代には、もうそうであったでしょうか。研究も進みました。多数の研究者、フォロワーが誕生しました。しかし、それに代わるべき思想というのは、まだ出てきていないように思われます。いかに千葉氏が、ポスト・ポストモダンなどと謳い、メイヤスーやバディウなどが注目されようとも、そうです。それには、主に時代が時代が停滞し、ドゥルーズが活躍したような60-70年代のような、政治的にも非常に苛酷であったような状況が、なんとなく和らいで、これが最適解とまではいかなくとも、すくなくとも当面は、なんら新しい思想なしでも、この21世紀をドライブできている、という現状に依るものと思われます。

しかし、それは、現代を真の危機と捉えていないことの表れです。現代では、危機が隠蔽され、なんとなくなあなあとされてしまっています。私は、大学院を出ていながら、定職にもついていないものですが、そういった境遇をも踏まえ、自分の置かれた立場が、非常に現代的である、という強い自覚をもっています。現代は、隠れた危機の時代です。中東問題とか、アフリカの貧困問題とか、原発とか、資源枯渇とか、そういった目につくような危機とは全く違う、まさに、現代日本に内在する、かつ隠蔽されている、日常的に蔓延している危機です。私はその危機を自覚しているからこそ、従来のドゥルーズのモデルでは満足せず、新しい体系を模索することになりました。

では、この現代日本に固有の「危機」とは何か。それを次回説明します。
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