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純粋同一性についての補遺②.

今回は、補遺として作用としての超越について語ります。なぜなら、超越作用は純粋同一性に深く関わってくるからです。

超越についての知。

超越とは、対象的なものでない限りで、無であろうか、それも作用的であろうか。もし後者ならば、存在に作用して、それを反復させることで、二つの存在の間、つまり存在者についての超越を生じさせるようなものであるだろう。

神ですら、超越作用によって反復されるし、それが神自身についての超越である限りで、神の絶対性も(唯一性という性格も?)失わない。神は自分も含めたあらゆる存在を反復できるが(それが神の個数における任意性つまり多神論ということである)、世界内の経験的実在は、少なくとも経験的には、己が包摂しているもの、つまり己の内的所有物しか反復対象がない。つまり超越作用の対象がない。

ある一回性の経験の反復が、一般性としての観念ではあるが、それは余りに経験心理学的、ヒューム的でしかない。己が有する、既知のもの、新しさのまるでないものが、反復=超越作用によって複製されつつ、その複製先が、まるで異なる領域だった場合、その領域の機能化や存在者の固有の規定等により、反復されたものは、結果としてまるで新しいものとなる。ドゥルーズ的な差異の反復でなく、反復先において偶然的に得られた、単なるアレンジでない、新しい存在者が問題なのである。

だから、純粋同一性とは、領域なき存在者であって、アプリオリに新しいが、それへの直接的アクセスというより、そのもの(原型、イデア)の、諸領域への反復が問題なのである。つまりプラトンにおける分有の問題。分有は分有でも、思考のイマージュや、諸領域への分有なのである。諸領域はそれぞれ生成するので、永遠に未踏破ではある。その意味の一つに、超越作用による反復がある。つまり、その領域に超越作用によってある存在者が反復された場合、それはその領域内部で連続的に導けないような、異質なものでありうる。それは、領域破壊的で有り得る。その場合というのは、当の存在者が、本質的に、その領域における存在者の定義に当てはまる場合である。もしその領域の存在者の定義をそもそも満たさないのならば、その領域の存在者ですらないのだから、反復自体が不可能である。だから、その領域の存在者の定義を満たしながら、しかも現状では論理的=存在論的に連続的に導けないという、その超越を解消するのが、存在論的演繹なのである。それが、領域の発展であり、演繹がプロセスであり生成である。これは、既在の観念の他の領域への反復であるが(つまり実存者の超越作用、行為、行動という、実存者内の事件・出来事であるが)、純粋同一性の反復とは、それに関して、あるいはそれに対応して経験世界が組織されることを思えば、経験世界の中心ではあっても超越であり、それ自体は不可知なものである。だからそれに関して組織された世界を構成する諸領域へと、それが人為的に反復されることで、それが領域横断的に伝播するのは、瞬く間であり、それはその世界を特徴づけるしるしとして、理念的に世界を統一していると言える。

ここで述べたことは、存在を世界に担保することで、世界の外部で存在=思考となって生成をプロセスとし、純粋同一性へのアクセスとする、という、今までの記事の考えかたとは、異なっています。それについてはまた詳論しますが、そういった存在=思考=生成ですら、無限定でなく、ある限定された領域に相関的であると言えるでしょう。つまり、思考=存在だったり、作曲=存在、プログラム=存在だったり無限の場合を考えられますが、また思考だけをとっても、どんな思考に相関的であるか、といった、下位分割が問題になってくるでしょう。

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第一章補遺。アプリオリな形式の交差としてのリゾームモデル。

フランソワ・ラリュエルの「非哲学」によれば、超越論は超越的カテゴリーの統一であり、一なるものであるが、超越は多様なカテゴリーです。

今ここで、リゾームをいったん、ドゥルーズ的な発生的ポテンシャル(つまり超越論的で生成的な要素)から引き離してみましょう。つまりそれを、形而上学的・超越的な平面に置き直して、アプリオリな諸形式の交差である、としてみましょう。するとここで、リゾームとは前経験的・抽象的パラメータの交差であるから、認識論的かどうかも未規定な状態です。それは存在論的である限りで、存在そのものであり、経験的に外部にあった純粋な存在者の諸領域を結ぶ関係=場所として、存在そのものなのです。つまりそれは、諸領域内の純粋な存在者、及び実存の形式をもつ間世界的な存在者の相互的なアクセスを提供している。

諸形式は、抽象的である限りで、交差できます。もし諸形式が、何らかの内容に関する形式なら、それはパラメータです。また、パラメータの自己超克が、ドゥルーズにおける強度です。

逆に、抽象的諸形式に経験性が与えられない限りで、その個数及び交差は無制約的であるのです。もし経験性が与えられれば、リゾームは超越へのアクセスを失い、有限性へと囲い込まれてしまう。なぜなら、経験においては形式の純粋な交差は不可能であり、交差していたものは互いに超越するから、形式によるアクセシビリティが失われるからです。つまりリゾームは存在者にとっての場所=関係でなくなり、各々の形式が、内容に関する経験的な形式となって、まさに経験的内容によって、制約されます。ある経験的存在者に関する、同じ内容に関する形式は、複数存在しえません。

こうして、存在そのものだった諸形式の交差は、(離散する諸領域内の)存在者から絶対的に切断され、認識論的なものとなります。同時に間世界的存在者は、世界内存在となります。抽象的である限りで無制約的だった形式の個数が、有限個へと制約される。あるいは、もし経験において諸形式の交差が可能だとしたら、それは同一な内容をもつパラメータということになるが、経験的には、同じパラメータにおいて二つの異なる値を取ることは出来ないため、結局は不可能です。

この存在論的リゾームにおけるその形式の交差点が、もし特異な点であるならば、それは経験的に言えば複雑な状態であり、従ってそれを巡って経験化しつつあるセリーが、それに関して互いに交差不可能であるような、問題的な点となるでしょう。特異点にはセリーが対応するのであって、それを通るのではない、という意味の論理学におけるドゥルーズの記述の意味がここで明らかになると言えるでしょう。

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人間は真に新しいものを創造する能力を持たない。想像力の神秘性と純粋同一性

創造、生産とは、当の生産されたものの特異性が、その創造・生産行為から直接導けないが故に神秘的であり、それが無からの生産でなく主体の能力としたところで、神秘性を隠蔽しただけです。つまりそれは、生産の神秘性を想像力に包み隠したが、その想像力とは、まさに無から生産するのであり、生産の根拠の実体化でしかない。

神であれ、その存在の神秘性と、その力能としての創造の神秘とは別です。神の存在に関する神秘性の除去と、神の力能とされる無からの創造の能力の神秘性の除去とは、さしあたり別々に行われねばならないでしょう。

だから、創造とは、ここ(経験世界)にないが外部には既に在るものを、ここ(経験世界)にもたらすこと、です。
つまり外部へのアクセスーそれも未知の領域にて、己にとってのその未規定性に対し自性を保ち、堪え忍びながら持続することーにおいて、単なる永遠生成の閉域における未規定性でなく、既にこのもの性をもっているもの、つまり純粋同一性を掴み持ち帰らねばならないのです。

純粋同一性などない、永遠生成とは予めの同一性なき差異の反復だ、という主張があるとします。
その場合もし純粋生成の閉域にアクセスするだけだったら、それは、材料たる質料、未規定性を経験世界に持ち込んで、それを素に組み立てる、形にする、ということに、想像力は還元されるでしょう。しかしこの予めの青写真なき組み立て作業は、たまたま新しい形を取りうるが、まさにその形である必然性がないため、問題的な対象にはならないのです。つまりそれは新しい芸術作品のようなものでしかなく、新しい概念や思考の枠組みを得るのではない。根本的に思考の様式を揺さぶり、その刷新を迫るような、問題的な対象は、したがって、生成する閉域の内部において、己自身を保っている純粋同一性以外にありません。

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プラトンにおけるイデアと、純粋同一性の違い。存在なき存在者。

フロイトやラカンにおける「欲望」なるものは、一見神秘的なものに映ります。神秘的というのは、もはやそれがそうである理由を、思弁によっては明らかにできない自体を言うのです。

これから、プラトンのイデア説を私なりに解釈しつつ、プラトン的イデアと、純粋同一性との差異をはっきりさせたいと思います。まずは、一般的な話から始めます。それは恐らく神話的でしょうが、存在を欠いた存在者のお話です。つまり、存在者は、あるとき、何もない虚無に投げ込まれた、という神話。

そのとき、この存在者の欲望とは、存在すること、つまり恒久不変な実体化の欲望です(これを「実を求めること」と以後表現します)。本来、存在することが、かくも自明でなく、刹那的であり(現象的であり)、どこからか不明な場所、不可知な場所から投げ出されたものであり(存在なき存在者、原贈与)、常に己の実を求めつづけなければならないような過酷なものだとすれば、この欲望とは神秘的でもなんでもないのです。神秘は、欲望にではなく、その欲望の源となった、原贈与へと振り替えられたのです。

結局、哲学においては、どこに神秘を置くか、が問題なのであり、神秘性をいささかも含まぬような、経験世界についての唯一の理論はありません。この場合だと、原贈与に神秘性を集中して割り振ることで、欲望の神秘性を剥ぎ取ったわけです。

「経験とは理念的である」という逆説が、今までの私の立場でしたが、それは今や、「経験の理念性の蓋然性の絶対化」、と表現されます。つまり、経験とは、いくらそれを追い求めて、学問的に記述しようとも、常に学問による解明を逃れ続けのであり、つまり永遠に自らを(人間的な)経験へと完全に引き渡すことのない、物自体なのだ、と。しかしこの仮定は、当然蓋然的です。科学によって、経験世界が「現状において」説明しつくされていないがゆえに、このことを超帰納化して、科学によっては経験世界は永遠に解明不可能だとして、経験の不可知性を絶対化した、ということです。

したがって、経験の理念性とは神秘的です。逆に、科学とは、経験の理念性の否定の蓋然性の絶対化であるという意味で、厳密な意味で、経験の理念性テーゼと対称的であり、したがって等しく神秘的なのです。物理学は非経験的な理論である限り神秘性を外部に排除することで、神秘的なものに言及することを免れています。しかし、物理の言葉で、経験世界に言及しようとすると、経験に必然的に含まれる神秘性を内部に抱え込み、その神秘性を、物理的に還元することがその仕事の全てになるのです。

このことは、ブラシエが『Nihil Unbound-Enlightenment and Extinction』の第一節で、ポール・チャーチランドの排除主義や還元主義を批判しているところにも、その一端が見えるでしょう。

では、プラトンについてのお話に移ります。プラトンにおけるイデアについては、質料の方が、イデアを希うのです。無根拠で形もなく、刹那に消滅してしまう己を、根本からその実(恒常普遍の実体性)への変容を迫るような、能動的形相による支配を望むのです。だから、規定を望むのではあるが、離散するイデアのうちの特定のものを望むような、安定した実という状態になく、規定は差し迫っています。つまり超越者であればなんでもよく、一般的超越者を志向するのであり、志向ということによって、正しく超越を乗り越えられるのです。言い換えれば、イデアとは、それ自身述語でありそこに諸々の存在者を包摂ー述語付けをするのです。それ自身でやっと存在性を保っている質料、つまり未規定性は、述語付けられることで、つまり超越者への志向が成功することでー彼は超越者というきわめて一般的な存在を志向できるだけであり、個々のイデアを参照出来ないから、どのイデアが彼を規定するのか、は、イデア界の方の事情で決まるしかないのだが―そのイデアを場所として、己の実性をイデアに担保してもらうことで、自らそれに内在的に実でありつつ、そのことでやっと質料である己の力能、生成が可能になるのです。

これは、うまくいったプラトニズムの解釈です。しかし、質料とは、そもそも自存できず、そのそもそもの起源からして、理由なく投げ入れられたものだとするならば、以下のように議論は変容していきます。

ここで投げ出された存在者(つまり質料)とは、純粋同一性と違って、己の内容としての絶対差異を持たず、単純な未規定性です。
それは、可変的・可塑的な形相(形態)をもつ質料として、プラトン的な意味での、欲望、つまり支配の欲望です。しかし、プラトンのように、質料をまったくそのままの意味で用いれば、それは自存するいかなる内的根拠も持たないのであるから、そこで質料が誕生しては刹那に滅するような、質料界という、そこで「質料という存在」が担保される、実的で恒常的な領域を設定せざるを得ません。しかし逆に、個々の質料が刹那滅でありつつ、もし、質料界という恒常的な領域に内在することで、その実性を保証されているのならば、なぜそれは形相によって限定される必要があるのでしょうか。つまり、なぜ、現象であって、存在でないのでしょうか。ここでは、イデア界は、まったく宙に浮いていて、無視可能などころか、消去が可能なのです。


同じ投げ出された存在者、つまり存在に先立つ存在者としての純粋同一性においては、事情は全く異なってきます。次回はそのことについてお話します。

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第一章 「存在と無」~『純粋同一性』と永遠生成の閉域 4

純粋同一性のお話の続きですが、今回は多少経験的な場面から語りましょう。

急にかけがえのない形を思い付く、といったことが、あると思います。ここで「形」とは、一般的な意味で言っているので、ラノベの設定とか、新しい旋律だとか、なんでもよいです。しかしそれらは、本当に、その人によって「創造」されたのでしょうか。

急に頭に浮かんでくるような、こうした新しい「形」の発想は、その人の認識論上の文脈との連続性を欠くからこそ、創造的だといわれます。しかし、なぜ「そのメロディー」なのでしょうか。なぜ「その形態」なのでしょうか。この「なぜ」が説明されてしまったら、
すなわち「そのメロディー」の根拠が、あくまで世界内在的に説明されてしまったら、それは、結局脳内の神経やニューロンの過程に還元される、ということを意味しますが―それは本来の意味での創造ではないはずです。今まで存在しなかった、新しい存在者(メロディー、モチーフ、形態、概念等々)が、その当人の認識論的文脈になんら依存しないで、突如として出現する。だからこそ、それは創造と言われるのであり、その発生を非文脈的に根拠づけねばならないのです。まず、その「なぜ」を、非世界内在的に、つまり外部主義的に解明することで、「創造」の神秘性を剥ぎ取る。次いで、「そのメロディー」の「その」を、つまり突如浮かんだメロディーの掛け替えのない一回性を、つまりは実存性を、明らかにする。このことが、課された課題です。そしてその回答が、純粋同一性ということになりますが、もう少しこの課題について考えてみます。

メロディー、モチーフ、等々、これら新しい存在者を今後さしあたっては「形態」と呼びますが、その実存性を明らかにする、という場合、私は実存の根拠を論じようとしているのですが、例えば人間といった複雑な存在者(なぜ複雑かと言えば、彼は多くの可能な思考方法を相対的に持っており、またそれと相対的に相関する多くの可能な実在及びその実在で定義される世界を持っているから)の実存性を明らかにする場合とは、異なったアプローチが必要となってきます。人間の実存においては、その実存を可能にする領域が語られますが(超越論的実存主義)、形態に関しては、それは明らかにこの実存する人間と相関的に、あるいはそれを条件として成立します。しかし、形態の創造ということが、この人間の実存性の内在性に訴えられないのならば、人間の実存性とは超越しつつ、しかし人間の実存を通して、それは成立する、ということになります。言い換えれば、それは人間の実存の外部にあるのですが、したがって歴史内在的・文脈依存的な世界内存在が、そこに内在する世界から超越しているのですが、しかしこの歴史や世界といった経験的領域への/からの、何らかのアクセスが存在する、ということになります。

加えて、こうして経験世界から超越した形態なるものは、要するに超越的存在としてのイデアなのですが、しかしイデアと違うのは、それらが徹底的に一回性をもつ実存者である、ということです。それは、プラトン的イデアが、その普遍性によって自ら存在しているのとは違い、反普遍性ともいうべき特異性をもっているので、ますます己の内容によってのみ、その「一回性」でありつつかつ「永遠の」実存性でなければなりません。この形態の内容は、前回も述べたように、要するに差異です。絶対に他とは異なることが、永遠に保証された差異であり、他との関係によってアポステリオリに生じた機能的差異ではないのです。

当然、そのような差異は、どこから来るのか、と問われるでしょう。しかし、それには答えることは出来ません。絶対差異をもったアプリオリな存在者であるゆえに、その内容たる差異は、絶対化されているので、それ以上の起源を問うことができないのです。だから、その実存は、人間の実存と違って、その成立を可能ならしめる論理を語ることができません。
このようなアプリオリな存在者としての形態は、各々特異性をもっているのですが、リュック=ナンシーなどが述べるような、「特異性の分有」などでは全くありません。このことについては、次回詳しく論じます。

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