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導入:超越的パラレリズムとは何か~自由行為

今回は、「自由行為」についてお話しします。
自由行為は、超越的パラレリズムにおける、一つの倫理的行為のことです。

自由行為とは、一言で言うと、結果を意図しない行為です。

何か結果を得るために、つまり意図された結果まで自己を接続、延長する行為、認識であるならば、予め知るべきものを知っているか、単に記憶しなければなりなせん。
だから、この種の記憶能力の地位は、思考法に比べて低い。思考可能なものだけが記憶可能です。
だから、この結果を意図する行為とは、思考による圧力を受けています。

そこで自由行為。
予め意図した結果を持たない自由行為、創造は、その意味では狂人的です。狂人と違うのは、創造を意図すること、意図のない行為を意図すること、行為の結果たる個別的表現を、接続する根拠としての、潜在的方法論を確立することです。
つまり、どうやって自由行為を行うのか考えねばならない、ということですね。

人間の本質には、行為する、ということが含まれており、それがなんら目的を持たないとき、創造となります。なんら強制されていないとき、己の本質に強制されて自由行為としての創造をするのであり、創造をしている、という感じが、喜びなのです。つまり己の力と行為のみによって、己の内容を変えた、特に思考のイマージュを変えた、という、己の先天的実存、アプリオリな本質に対する勝利の感じです。

あるいは、世界に全く新しい実質を与えた、という、世界に対する勝利の感じ。作るとは、予め在るものの支配に対する勝利であり、予め在る系列に対する、点的な自己根拠化です。

作るということが、外的目的に従属することを止め、自己目的となる、ということ。自由行為には、一人称的な創造行為と、二人称的な相互倫理行為がある。だから、資本主義は肯定されても、労働能力(とそれに対する賃金)によって、自由行為の自由が侵害されてはならない。労働能力、生物学的力能の異なるあらゆる程度の人が二人称関係をもつ自由こそ、階級の撤廃に繋がる。

あらゆる人のもつものは、能力(行為する能力)、具体的所有物、抽象的所有物(資本)に分けられ、資本主義においては、抽象的所有物によって、能力と具体的所有物が計測されます。ところで、目的に従属しない創造行為の能力は、いかに既存のものから切断し、それからかけ離れるか、いかに自分にショックを与え、既成の規定を逃れ去るか、が問題です。知るということ、つまり認識は、それ自身自己へのショックであるとき、外部から己の未知を取り込む、己の創造の力能を、外部から己にとって異質なものを積極的に取り入れ、既存の己が否定されるリスクを犯してでもそれを欲する、という、創造の力能を用いた、知らないことを知ることです。つまり、ドゥルーズにおけるシーニュですね。それは単なる堆積する知識、既存の体系を単に豊富にする知識でなく、思考法、方法論、体制の変化、そこで既存の知識の意味が変わってしまうようなそうした激変を、受け入れること。だから、方法論は新しくなければならず、思考法を産み出さねばならない。

そうして豊富にされた自己は、ある程度世界的既知に等しくなり、その既知の世界から自己を切断し、そこからかけ離れる準備ができる。かけ離れた個別的認識を散在させ、それらが新しい意味をもつ思考法を、いわば顕在的に判明にする。

これらが、自由行為の意義となります。
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導入:超越的パラレリズムとは何か~サイバーデス

サイバーデス、という倫理観は、究極の個人主義を可能にします。
前回も触れたとおり、究極の個人主義は、楽天的に持続すると思われる種や社会に関してでなく、世界、人類の終わりが、もしこの個人の死と同時に起こるとしたら、という仮定のもと、思考されるのです。

前に、超越的パラレリズムは、血、種を否定する、といいました。
ここから、少し哲学的な話をします。

現代人はどこかで、無意味さに恐怖しています。
無意味さを、結論する構造とは、どういうものでしょうか。
推論を介して、「ゆえに無意味である」、と結論することですが、ここで「無意味である」、というのは、推論でしょうか、それとも印象でしょうか?

「世界は全て因果律に従っている、ゆえにあらゆる行為は無意味だ」という推論は、あらゆる行為に妥当し、それゆえ最もラジカルではあるが、最も具体的なものから剥離した、抽象的な推論です。特にここでは、サルトル的な意味、すなわち対自的が無視されています。

人間は、ともかく内在しているから、内在意味をもつのであり、このどこまでも超越的な推論は、具体的な内在意味から最も剥離している。内在意味とは、ここではいわゆるある系の機能とは違うものです。例えばある有機体の部分は機能をもちますが、この機能とは、系の全体の維持に貢献することをもって、その意味が測られます。ですので、ここで、機能と結果とが異質なものである、というヘンペルの機能分析は、さし当り無関係です。なぜなら、ここでは、全体に貢献することを前提する機能が問題なのではなく、あくまであるシステムに内在している存在者が生産する結果によって測られる絶対的jな意味が問題だからです。ここで念頭に置いているのは、機能ではなく、存在者の行為といってよいでしょう。行為ではあるが、結果によって測られる自由でない行為のことです。

逆に内在意味は、その結果に関して意味をもつのであり、無意味さを推論されるのは、当の結果の連関に対してです。結果を志向しない、自由な創造は、それゆえ、却って内在意味に無意味と非難されても、無意味を推論する者の目から逃れています。

いずれにしろ、無意味の推論者は、当の対象の無意味さを結論するのに、その根拠、無意味の基底、特にそこでは何の恣意的意味もない機械論へと接続するのが仕事の全てです。機械論には、超越的意味がありません、全て機械的な内在性で処理します。

逆に、結果に依存しない真の内在的意味が発生するとは、偶然が作用し、そうではなかった世界が有り得、従ってこの偶然的な実存には意味があり、そうではなかった他の可能性から、敢えてこの世界が選ばれた、とみなすことができるとき、己は己に対しては責任がないが、その超越的選択に、責任があり(偶然に責任がある、つまり責任なし)、また己は、他の可能な己に対してのみ、責任がある、ということではないでしょうか。自分の選択によって実現しなかった可能な自分に対して責任があるのは当然ですが(よってこの自分を延長する、引き受け続けねばならない)、偶然的に実現しなかった己に対して、つまり可能な、従って現実に存在する己に対して、しかし他の自分の実存でなくこの実存を与えられたことに関して、それを認知し、引き受けねばならない、ということです。それは単に、存在の意味を問うことを引き伸ばす通常の存在延長でなく、その都度実存を堪え忍ぶこと、実存の重みを堪えることです。
偶然的な作用、その偶然によって、作用されないものと作用されるものと作用されたものとが分かたれる超越的作用、こそが、作用されたものに、実存、意味を与えるのです。実存とは、超越的意味でなく、内在的意味、すなわち意味と存在との一致です。

ここで、先ほどの血、種の否定が生きてきます。生を受けるとは、因果的にその根拠を親に求め、そのことで親の責任ではあるが、究極的に特異的な実存としては、偶然を根拠とするがゆえに、根拠をもたない、責任を負うべき根拠がない、偶然を恨んだところで、何も認識は得られず、ただ引き受けるしかない。(種的な)必然的系列と、(実存的)偶然的点の、パラレルこそ、まさにこの実存である、ということです。

人類のため、という共通目的、種的目的が、唯一の終焉によって意味を失ったとき、どうやって生きるか。そのヒントの一つが、この真の実存の考え方に含まれています。そしてそれとは別のヒントが、この実存とも関連する、「自由行為」という概念です。
次回は、「自由行為」についてお話しします。

導入:超越的パラレリズムとは何か~終末論

超越的パラレズムを特徴づける性格の一つに、徹底した「終末論」があります。これは、当然キリスト教的な終末論ではありません。

どういうことか。一つには、3.11大地震の影響もあります。あのとき私は、なぜ地震が東日本を中心としたものに留まり、日本全体、いやアジア全体、地球全体が崩壊しなかったのか、と疑問に思いました。それは、もちろん地質学的には回答できるのでしょうが、しかしながら、人類の「破壊に対する免疫」の余りの脆弱さ、それに加え、破壊の偶然性について思い知らされました。私は、今日外出しても事故死しなかったが、それは偶然ではないか。私の存在から見て偶然であり、それを大きな因果から見て、事故が起きなかったことが必然である、というのは、私に対して外的なものではないか。

これが、出来事の非情さです。私が、ドゥルーズからもっとも多く学んだのは、まさに出来事についての論理であり(デリダもそのようなことを言ってましたね)、偶然についての考え方です。

さて、人類は破壊に対してあまりに免疫がありません。地球というちっぽけな星が崩壊したら、いや、地表が荒廃したら終わりです。人類を、いつか終わるもの、と考えること。太陽系の崩壊か、あるいは核戦争か、エネルギー不足か、地震かは分かりませんが、とにかく楽天的にだらだら持続していくものとしての人類でなく、確実に滅亡するものとしての人類を考えること。

これは、しかしながら、非常にポジティブな側面をも併せ持ちます。究極の個人主義は、楽天的に持続すると思われる種や社会に関してでなく、世界、人類の終わりが、もしこの個人の死と同時に起こるとしたら、という仮定のもと、思考される、ということ。もし、人類が明日滅ぶならば、種をそれ以上存続させよう、といういかなる努力も無意味です。個人個人が、終末に際して、いかに在るか、いかに振る舞うか、が全問題となります。

しかし、その際、紛争地域などで起こっているような、略奪や、性の荒廃が起きないのか。どうせ明日死ぬんなら、せめて今だけでも快楽を貪ろう、という輩が湧いてこないか。

こういった、人類の終末を前提したうえで、個人はいかにあるべきか、集団はいかにあるべきか、について論じる、いわば超越的パラレリズムの下位部門が、「サイバーデス」とも名づけられるべき倫理学です。
なぜこの倫理がサイバーデスと呼ばれるか。それは、確実に機械の方が人類より永く延命するでろうからであり、したがって人類が滅亡してなお、宇宙の至る所で機械が作動している、というSFを念頭に、サイバーパンクに呼応して名付けられたからです。

次回は、このサイバーデスの倫理についてもう少し詳しく書きます。

導入:超越的パラレリズムとは何か~危機

今回は、現代日本が抱える「危機」について書きます。

前世紀、つまり20世紀の前半は、いろいろな意味で、全体性が跋扈した時代でした。
ベルグソンの生命、これは潜在的な全体性でなくしてなんでありましょうか。ニーチェの力への意志という概念がもつ全体主義的性格が、ナチズムに利用されたのは、周知のとおりですが、それは当然、西田幾多郎の絶対無の場所や純粋経験、またハイデガーの存在でもよかったわけです。これらの19世紀末~20世紀初頭にはやった哲学の共通性は、ズバリ、二元論を否定しようとして、その背後に一元的な形而上学的実質をみた、これにつきます。

大戦後、全体主義は、とにかく批判されるようになりました。それは、アドルノであったり、政治的にはアーレントであったりします。ドゥルーズもそうです。ドゥルーズこそは、ベルグソニスムを引きずりながら、潜在的な一性を否定しようとして、深層の分裂病的平面を発見しました。

さて、日本の民主主義が、君主制のごとき性格を持っている、ということはよく指摘されますが、しかし、それは置いていきます。隠れた全体主義、これこそが危機の源です。しかし、この隠れた全体主義は、現代日本になって初めて生じた、という性格のものではありません。むしろ、戦中の日本の、政治的意味での全体主義が薄まって、政治的な対立が弱まって、表面的な危機意識が薄れている現代にあって、初めて露わになってきた、というべきでしょう。

具体的に、この潜在的な全体性とはなにか。言ってしまえば、それはまずは、「血」でありましょう。血縁であったり、種であったり、人種であったりします。血を、つまり民族を、否定したことのある哲学があるでしょうか。血こそは、潜在的な全体性であり、真の個人主義の実現を妨げ、人間をいつまでも縛り付けるものです。

例えば、私は、ある血筋に属していますが、なぜそれに縛られねばならないのでしょう。なぜ、姓といった制度があるのでしょう。それは、明らかに個人の識別のためではありません。
例えばまた、民族は、それはヨーロッパを見れば明らかなように、明らかに国家とは相対的ですが、しかしナショナリズムを煽ります。ナショナリズムは、というよりレイシズムは、人間の根底にあって否定できず、個人の自由な運動を制約しているように見えるのです。
であるから、まずこの血なるものが、本当に哲学的に、存在論的に否定できないものであるかどうか、これを検討する必要があります。

さらになお、潜在的な全体主義批判は続きます。
例えば、「世界」とは、表象でしょうか、実在でしょうか。それは表象であるとは、個人が世界に先立つ、ということです。
それは、世界内存在、というハイデガーの考え方とは真っ向から対立し、むしろドゥルーズとよく符合する考え方でしょう。
私は、そのモデルをとります。
一方、世界が、実在である、とはどういうことでしょうか。その場合、世界と、存在者とは、同じレベルにある、ということを意味するでしょうか。そこでは、世界は存在者の場として機能し(ハイデガー、西田)、そしていつの間にか、世界が存在者に先行し、それを可能にするものへと転倒せられる、という事態が生じないでしょうか。

この、存在者を可能にするもの、を、「存在」と読み替えましょう。世界はまず、存在者と同じレベルとして捉えられるが、それが「存在」と読み替えられ、この「存在」が、表象でも実在でなく、潜在的根拠と化す。こうした事態、この転倒が、潜在的全体主義が生じる、ということなのです。

ですから、私のプログラムは簡単です。「存在」を否定すること。「存在者」の哲学を構築すること。それは、私が、スコトゥス―ドゥルーズの、「存在の一義性」から離反する、まさにそのポイントであったりします。

王や神という倒すべき相手よりさらに深い、産み出された人工的根拠、「存在」。人間はその本性からしてポリス的なのだーという欺瞞。存在の発見、相も変わらず存在者であるような根拠(イデア)でなく、存在者とは本性的に区別される潜在的根拠の誕生こそが、まさに元凶なのです。

ですから、「存在などないー存在者があるのみ」、というわけです。

次の記事では、超越的パラレリズムを特徴づける一つの終末論的性格について書きます。

導入:超越的パラレリズムとは何か~その歴史的文脈

こんにちは。くれと申します。かつては、上智大学哲学研究所で、ドゥルーズを研究していたこともあります。
さて、ドゥルーズを研究しているうち、次第に私の心はドゥルーズを離れ、新しい形而上学的体系へと収斂していきました。
このブログでは、「超越的パラレリズム」とも名づけられるべきその体系を、平易に記述することを試みます。
今回は、その導入として、超越的パラレリズムがいかにして誕生したのかについての、思想史的背景を述べます。


ドゥルーズが古典化して、久しくなります。日本ではおそらく、浅田が活躍した1980年代には、もうそうであったでしょうか。研究も進みました。多数の研究者、フォロワーが誕生しました。しかし、それに代わるべき思想というのは、まだ出てきていないように思われます。いかに千葉氏が、ポスト・ポストモダンなどと謳い、メイヤスーやバディウなどが注目されようとも、そうです。それには、主に時代が時代が停滞し、ドゥルーズが活躍したような60-70年代のような、政治的にも非常に苛酷であったような状況が、なんとなく和らいで、これが最適解とまではいかなくとも、すくなくとも当面は、なんら新しい思想なしでも、この21世紀をドライブできている、という現状に依るものと思われます。

しかし、それは、現代を真の危機と捉えていないことの表れです。現代では、危機が隠蔽され、なんとなくなあなあとされてしまっています。私は、大学院を出ていながら、定職にもついていないものですが、そういった境遇をも踏まえ、自分の置かれた立場が、非常に現代的である、という強い自覚をもっています。現代は、隠れた危機の時代です。中東問題とか、アフリカの貧困問題とか、原発とか、資源枯渇とか、そういった目につくような危機とは全く違う、まさに、現代日本に内在する、かつ隠蔽されている、日常的に蔓延している危機です。私はその危機を自覚しているからこそ、従来のドゥルーズのモデルでは満足せず、新しい体系を模索することになりました。

では、この現代日本に固有の「危機」とは何か。それを次回説明します。
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