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第一章の終わり。 純粋同一性と、経験世界の成立。

ここまで、純粋同一性なる存在者のの離散している、経験から超越した領域について論じました。そこでは、創造の神秘性を、外部主義的に剥ぎ取ったつもりでした。新しいものがもたらされる、とは、かくも静的な営みであり、ドゥルーズの時間の第三総合に代表される、それ自身で生成しており、いわば経験的な生成の根拠となっているような、永遠生成の領域というものはない、と今は考えています。(前に、純粋生成の閉域と純粋同一性の離散とは同一視できる、といいましたが、それについては判断を保留させてください。私は、生成を神秘化するのでなく、生成の構造を明らかにしたいのです)。

純粋同一性の領域は、世界の集合ではありません。第二章は、世界について論じようと考えていますが、それを少し先取りすると、「世界は存在者であり、かつ歴史的である」ということが明らかになってきます。ここでは、一方でハイデガー、他方でメイヤスーの主張と、完全に食い違っていますね。ハイデガーなら、世界は存在者であるとは絶対言わないし、メイヤスーは、世界が歴史的である、という現象学的な世界観を否定したのでした。ハイデガーに反して、世界とは、経験的なものであり、超越論的なものでない。

しかし、またまた次章の結論を先取りすると、ここで世界を歴史的かつ離散しているものとして捉えることで、また実存者の構造の一般化を媒介することで、歴史性という相関主義的な閉塞を、外部主義的に解決したことになります。

諸世界もまた、己の内容(具体的歴史、実存者がその上で可能な場所)、つまり特異性によっているが、特異性の抽象性ゆえにそれでもって世界の固有の歴史性を演繹することは出来ません。「構成的現」こそ、歴史=場所を組織し現は「この」歴史の「この」性を担保するものとして、歴史そのものから超越しつつ、歴史=場所の特異性を基礎づける。あるいは抽象的存在者としての特異性に、具体的内容の極限を与える。それにより、場である関係=差異の差異化が生じる。この世界における関係=差異の絶えざる差異化でなく、他の世界=関係との差異化すなわちその世界が真に特異的となり、その関係=差異が、特異的に規定される。
しかし、その必要すらないのです。世界は、ある純粋同一性に関して、予め抽象的に特異的に構成されていた、現を構成している関係=差異が、当の純粋同一性の内容によって、一息に具体的となるのです。

記述が晦渋になってしまい申し訳ありませんが、詳細は次回以降お話します。

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実存者と純粋同一性の違い

今回は、実存者と純粋同一性の違いについて簡単に書きます。

【実存者の「実」】
実存者は、歴史内存在的に在ることで、己の実性を世界の実性に預け、安心することはできる。しかしそれは、実存的なものとしての歴史的世界の内存在ではあっても、従って自ら実存的ではあっても、世界の外部、超越者を志向するような真なる実存者、壊れやすくその実を己で担い、崩壊を一瞬一瞬堪えているような実存者でない。崩壊の常なるリアリティに堪えているのは、この場合世界の方である。世界に無の点が内在する、とは、世界が関係=差異、つまり場所となることであり、それにより存在者は、場所において実でありつつ、己に固有の抽象的対象を世界の外に措定することができる。それが、共同体からの、主体的自我の成立である。

つまり実存者とは、純粋同一性と違い、自ら可変的な内容を持つ実体である。従ってその主体的実性は超越的内容を媒介変数とした関数の値である。また存在論的レベルにおいて、可変的な内容を持つ抽象的対象(抽象的ノエマ)を、その志向対象とすることで、抽象他者と相関しつつ、抽象他者を実たらしめることで、己の実性が、つまりその内容が可変的であるにも拘らず実性をもつことが可能なのである。抽象他者を実たらしめるとは、既に己の思考の枠組みを制約しており、その志向の枠組みにおいて抽象他者の抽象性を剥ぎ取った、ということである。


【純粋同一性の「実」】
他方で、規定されきった全体性、時間の全体性は、純粋同一性の絶対差異による自存から語られねばならない。この絶対差異とは、純粋同一性の内容でありつつ純粋同一性の絶対他者、絶対異質である。それはまた、投げ出された存在者としての、原要求、己の実性の不断の要求にも求めることができる。この存在者は、己の実を、絶対差異としてもっているが、己の実を己で支えなければならない。己の内容としての絶対他者を、常に対象とすることで、その実体性は維持できるが、そのことで己の内容以外の対象を持つことができない。つまり、抽象他者をもつことができず、常に己自身の内容を参照することでのみ、己の実性を保っている。

次回は純粋同一性と時間との関係について語ります。

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第一章 「存在と無」~『純粋同一性』と永遠生成の閉域 1

前回の最後でお話したことで、ステレオタイプについての記述は十分だと判断したので、今回からは、しばらく私が『純粋同一性』と名付けた概念について語ります。この概念は、私の時間論にも深く関わってきます(時間論については別ブログのこの記事からを参照)。なぜなら、最終的に、「純粋同一性とは、永遠生成の閉域と同一であり、さらにまた時間の全体性と同一である」ということが帰結されるからです。

ところで、本題に入っていく前に、私自身の立場が、西洋の現代哲学の中でどういった位置づけにあるであろうか、という見通しをはっきりさせておくべきときが来た、思います。

以前にも言及しましたが、私の立場は、徹底した「外部主義」であり、「超越を肯定する並行論」であり、そのことで多元論的ではあるが、京都学派の即非の論理を多用することで「多即一」の立場であり、また同じく京都学派から「場の論理」を受け継いでおり、場が西洋的パースペクティビズムに対立する、という思考から「反遠近法主義」であり、それにも拘らず明らかな「相対主義」でありつつ、相対主義が必ず陥るパラドックスについては、「無の点」という「無の外在性(即内在性)」及び場所の論理、自覚によってそれを回避します。

また、ポストモダン後にあって実存を重んずる「ポスト実存哲学」であり、ドゥルーズ由来の「生成の哲学」でありつつ、楽観的な発展論に疑問を差し挟み、非宗教的な「終末論」であることで、真の「個人主義」を実現可能と考え、同時に「種の意味の否定」、それどころか「種の実在の否定」を主張します。また同時に、古くはショーペンハウエルからベルグソン、ドゥルーズにまで受け継がれる、生命的なものを根本におく態度を、神秘主義的として片付けます。それは生命の神秘性を剥ぎ取るのに何ら貢献しないからです。そして俯瞰でなく「自覚」の哲学であり、真に具体的なるもの(すなわち現(Da)及び実存者)がいかに可能か、という「超越論的実存主義」(これはあまりうまい言い方でないかも知れないが)です。そして、これまでの記事から明らかなように、「無の哲学」であり、西洋的な包摂、及び一般化志向に反対します。その代り、20世紀の哲学の潮流に反し、実体的なものをある意味で肯定し、それとは絶対に超越的な「作用」にこそ、非存在的で、無に固有のはたらきを見ます。

私の哲学の、リアリティーの全てをそこに負っているものとは、3.11の大地震です。それは記事の初めの方にも書いた通りです。
そして近頃ようやく日本でも浸透してきたらしい思弁的実在論には、「偶然性の肯定」という立場に、共通するものを見ます(最もドゥルーズやバディウにおいて既に偶然性は存在論的に肯定されていたのだが)。

思弁的実在論、と呼ばれるものは、私には、古代ギリシアのポリスにおいて、労働を奴隷に押し付けたことで得られた自由な知識人が、アゴラにおいて交わす、融通無垢なふわふわとした思弁論、というように映ります。なぜなら、それは時代に対して責任を負っていないからです。なぜこの時代に、この哲学が主張されねばならないか、ということを、その体系内部で説明できているのかが、疑問だからです。言い換えれば、リアリティーがない、思弁的な遊戯に思えるからです。実存主義や、構造主義、ポスト構造主義は、そうではなかった。それに固有のリアリティーがあり、時代に対して責任を負っていた。

まあこれに関連しては、目下あまりに情報に乏しく、全体像なるものがそもそも描けるのかどうかすら不明ですので、予断は差し控えましょう。再度繰り返すと、私の哲学がそれに依っているリアリティーとは、「歴史の終焉」であり、しかも外部から出来事的、偶然的に到来する、人類の死です(同じような発想を、レイ・ブラシエという哲学者がしており、私は彼の主著を取り寄せている最中です。しかし彼は、残念なことに、いわゆる素人哲学に否定的なようです。しかし真のリアリティーとは、アカデミズムの外に在るものではないでしょうか。ともあれ、ここのブログでも、今後彼の哲学を訳しつつ紹介できれば、と思っております)。

そして、「何が実在であるか」についての、分析哲学の長い伝統は、無意味なものとして映ります。なぜなら、実在とは物質であるか心的なものであるか、という議論については、あくまで「私の立場からは」既にこの一つ前の記事で解決済だからです(それは半実在論や非法則的一元論、内在的実在論、自然主義、自然な実在論等々、を否定することではない)。

本当は以上のことを、もっと早く書いておくべきだったとは思うのですが、私自身の立場が固まってきて、現在主流の大陸哲学に対しても分析哲学に対しても独自な位置にいる、という自覚が固まってきたので、この段階で書いておくことにしました。

純粋同一性のお話については、次回に譲ります。

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